武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と、その娘婿である北條氏照の居城であった武蔵滝山城跡地を含む都立滝山公園は、東京都八王子市の北部を流れる多摩川と秋川との合流点に広がる加住丘陵上にある。このような天然の地形を利用した典型的な平山城は、その規模、複雑な縄張、そして現代における良好な遺構の保存度合などからみて、中世の城郭遺構としては日本有数の遺跡の一つに数えられている。ここで「大石系図」によると、大永元(1521)年に大石定重が高月城から移って滝山城を築城したのが始まりと伝えられており、永禄元(1558)年ごろには北條氏康の三男・氏照が、定重の子・定久の養子となり、永禄10(1567)年までには(大石源三郎)氏照の居城になって、城郭の拡張が行われていたと云われている。それから永禄12(1569)年10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋である古甲州道(現在の滝山街道)沿いに建つ滝山城を二万の兵で包囲した。そして、拝島大日堂の森(現在の昭島市)に陣取った甲州勢は周辺の村々を焼き払い、二千で籠城していた滝山城を丸裸にした。このとき氏照は、古甲州道の城下の宿見口《シュクミ・クチ》へ兵を繰り出して戦ったと、越後の上杉謙信に自らの書状で伝えている。しかしながら、甲州軍の猛攻は凄まじく、三の丸まで攻め込まれ落城寸前まで追い込まれたが、なんとか凌いだと云う。氏照は、この時の教訓をもとに新城の築城に着手し、天正15(1587)年頃までに新しい八王子城へ居城を移し、滝山城は廃城となった。
これも一昨年は、平成26(2014)年の秋に攻めてきた城。攻略ルートを下調べしていると、この城跡はかなり評判の良い城(遺構の保存と整備が良い)ということがわかった。実際に城攻めしてみると、まさにそのとおりで、半日ほどで回れる規模で、枡形虎口は馬出など北條流築城術のオンパレードは大変満足できた。
ちなみに城跡付近には車を止める場所は見当たらなかったけれど、城内(中の丸)には車を止めることができるようだった。それを知らなかったので、今回はJR八王子駅からバス(戸吹または杏林大学行き)に乗り、「滝山城址下」というバス停で下車した。所要時間は20分程。このバス停はR411(滝山街道)沿いにあり、その昔、武蔵と甲州を結ぶ古甲州道にあたるという。これは、甲斐の虎こと武田信玄が武蔵国へ攻め入る時に利用した侵攻道でもあるそうで。そんな通りに滝山城(都立滝山公園)への登城口がある:
この看板が立っているところから、ちょうど都立滝山公園に向けて坂を上って行く。この坂は天野坂《アマノザカ》と呼ばれていたそうだ:
天野坂を登っていった矢先に、まずは滝山城(南は小宮曲輪から三の丸、いくつかの馬出、二の丸、そして最後は中の丸まで)をぐるりと囲む大横堀跡に遭遇する。気づかずに大手道を上がって行ってしまうと、うっかりとその存在を見落とすことになる。という自分も、実はその存在すら知らなかったのだけれど、見事な竹林に釣られて入ったところが実は大横堀跡だったという次第 。それでも、自分は初めてこんな綺麗な竹林を見た。その場所は、しばらく大手道を進んで、ちょうど小宮曲輪に入る手前にある:
この堀切が、写真左手前に延びており、そこから大横堀に繋がっていた。振り返って天野坂から脇にそれてみると:
斜面下側には虎口らしき土塁の切れ目もあった:
そして土塁壁に沿って立つ見事な竹林:
この大横堀は小宮曲輪の南側を囲むと同時に、三の丸の外周を走る堀切につながり、さらには二の丸、中の丸まで続いているようで、のちほど、それらの曲輪で確認することにして、天野坂に戻って先に進むことにした。
こちらは先ほどの大横堀の一部が小宮曲輪まで延びている部分と、枡形虎口(現在は消滅)から三の丸を囲む大横堀になる部分:
往時は、大手道と思われる天野坂からの堀底道は、守備側が敵を効果的に攻撃できるように工夫されていた。その一つが、この小宮曲輪と三の丸との間にあった枡形虎口(既に消滅)であった。
そして、小宮曲輪に入る。この曲輪の内部は土塁を使って、いくつかの屋敷に区切られていたと考えられており、三の丸との間(天野坂)には枡形虎口があったと云うが、現在は登城道(車道)のために消滅していた:
天野坂を挟んで南東にあるのが三の丸で、登城道よりも一段高く構えられた位置にあり、先ほどの横堀と土塁で囲まれている:
三の丸を囲む大横堀(の一部)を土塁の上から見たところで、その高さがわかる:
さらに登城道である天野坂を上って行くと、ここ滝山城址が整備されている都立滝山公園の碑が建っていた。この公園はトレッキングにも最適だそうで、実際に城攻め中に何人かの人達(Trekkers )とすれ違った:
これは二の丸(写真奥)と三の丸(写真手前)との間にある堀とコの字型の土橋跡。土橋は登城道(車道)によって消滅していた:
往時の土橋は、さらに狭く造られており、また直進させないようにする上に、敵方の侵攻に対して4回も進行方向を変えて進ませることで、複数の側面攻撃を可能にしていた。一応、現在の登城道はコの字形になっていた土橋の面影を残していた:
三の丸は二段になっており、こちらは深い堀によって隔てられていた上段側:
天野坂を挟んで三の丸上段の対面にあるのが千畳敷。これも一種の曲輪。滝山城の特徴の一つとして、曲輪が広いということが上げられる:
千畳敷の東にある馬出。虎口の前方に設けた空間で、少人数で守備することが可能な防御設備の一つ。特に、形が方形になっていることから角馬出《カクウマダシ》と呼ばれていた:
なお馬出は、この他にも二の丸の三箇所の虎口にそれぞれ設けられているということで、あとで見てみることにする。
こちらは千畳敷の眼下にあった弁天池跡で、小舟を浮かべて宴を楽しむために設けられたと云われており、端に中の島があったという。今は池を堰き止める土手が分断されてしまっているが、往時はつながっていて湧水や雨水を溜めていたらしい。ちなみに、このように中の島を持つ弁天池は、氏照の弟である氏邦の鉢形城にもあったとされる。
千畳敷を抜けて二の丸方面へ進むと、これらの曲輪を隔てる堀があった。奥に見えるのが二の丸の南馬出で、さらに奥には大馬出がある:
こちらが二の丸。二の丸も二段構成になっており、こちらは西側の二の丸になる:
二の丸を横目に、さらに登城道の天野坂を上って行くと分岐点に到着した。この分岐点の向こう側(写真手前)は東側の二の丸にあたり、ここで本丸・中の丸方面(写真右)と東馬出・信濃曲輪方面(写真左)に分かれることになる。実際に、往時も二の丸には複数の道が集まるため、防御の要となっていたと想像できる:
こちらは東馬出と信濃曲輪がある方面で、登城道を挟んで左右に二の丸がある:
そして、こちらは本丸・中の丸方面。まずは、こちらから攻めることにした:
この登城道を進むと、中の丸(写真左)と二の丸(写真右)の間にある堀切に遭遇する。こちらは中の丸南側にあたり、二方向から攻め寄せられた敵が合流する場所で、土塁の遺り具合からみて櫓門が建っていたのではないかと予想されている:
中の丸への虎口を通り過ぎ、さらに本丸方面へ進んでいくと、本丸の堀底に広場が造られていた。これは実際には無かったものだけれども、かなり広く、そしてなぜか綺麗に整備されていた:
これが本丸と中の丸を結ぶ木橋(想像復元)で、本丸側へ半分ほど引き込むことができたことから引橋《ヒキバシ》と呼ばれたもの:
往時はもう少し下に架けられ、右側にある中の丸に敵が押し寄せてきたら引橋を引いて渡れないようにしたと思われる。その下には人工的に掘られた大堀切(往時はもっと深かったらしい)があり、本丸が最終的な砦であったことがわかる。
本丸へ向かう虎口は、この引橋の他にもう一つあり、それがこの堀底から上がるルートで、ここには本丸南側枡形虎口があった:
枡形は敵の直進を阻むための防御施設であり、もし敵が虎口に侵入した場合、同時に二方向から攻撃を受けざるを得ない体勢になる。
この虎口を抜けると本丸の南側に入る。そして、本丸も他の曲輪同様に二段構えになっており、南側は土塁で囲まれていた:
現在の本丸南側には大井戸、そして城址の碑がいくつか建っていた:
こちらは南側の一段上に建つ霞神社と、その本丸北側から見下ろした本丸南側:
このあとは本丸北側へ向かうことにする:
こちら側は南側とは異なり、土塁はなく、この先が多摩川に面した断崖になっていた。そして、その下には武者溜まりの腰曲輪や堀切、曲輪などが多数あり、それぞれで挟み撃ちすることが可能になっていたと云う:
こちらは本丸北側端からの眺望で、かっての多摩川もその流量は現在よりも遥かに多く、おそらくは河道も定まっていなかったと予想すると、これが滝山城にとって天然の外堀に相当すると言える:
これは、本丸北側に建っていた金毘羅社と鳥居で、その参道を覗き込むと、本丸北側がいかに高所にあるかがわかる:
本丸北側の周囲は急崖で囲まれ、その比高差は50〜70mはあった。ご覧の通り、今は参道として石段が整備されているもの、斜面が急な本丸付近へよじ登るはかなりの労力が必要であることがわかる。
それでは本丸南側へ戻って、もう一つの虎口へ進むことにする:
こちらの虎口は中の丸から引橋を渡って本丸に入る部分で、滝山城址が都立公園として整備されるにあたり発掘調査が行われ、その際に、現在の地表から深さ約1.2mのところに30〜40cmの扁平な河原石を敷き詰めた通路が発見されたと云う。本丸側の土塁下にあるL字形の部分には側溝が付き、その先は一部が暗渠となって土塁の中につながっていた。
こちらが本丸と中の丸を結ぶ引橋:
この引橋は本丸と中の丸との間にある大堀切の上に架かっている:
この橋を渡って本丸へ中の丸へ移動する:
この曲輪の山腹には腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川へ向かって数多く設けられていた。このことから、城址の北側の多摩川方面に対して強く警戒していた縄張であったと考えられている。また、この附近には、往時は河越道の渡河地点である「平の渡し《タイラノワタシ》」があり、ここを支配下に置く役割を滝山城が持っていたと云われている。
こちらは中の丸からの眺望:
滝山城古図には、中の丸が千畳敷であると記されており、城の北側に本丸と対になった形で配置され、そして内部は本丸同様に二段に分かれていた。往時は枡形土塁や本丸へ渡るための引橋が配置されていたと云う。
というところで、一旦、中の丸を下りて二の丸の分岐点へ戻り、その奥の東馬出と信濃曲輪がある方面へ移動した。
まずは、二の丸と信濃屋敷の間にある「行き止まり」の曲輪:
この曲輪の両端が狭い土橋になっていて、進んでいくと行き止まりのような状態になる。寄せ手にとっては行き止まりの罠になるが、城方にすると格好の馬出となり、実に巧妙な造りになっている。他にも二の丸の南側に同じような角馬出が残っている。
二の丸周辺の防御施設:
こちらが大馬出跡:
そして、これは大馬出から二の丸の角馬出へ渡るための土橋。二の丸は滝山城で最も防御性に優れた曲輪であり、東馬出、大馬出、南馬出を備えており、多くの守備兵が駐屯していた:
二の丸の東にあるのが信濃屋敷のある信濃曲輪:
信濃曲輪は複数の曲輪が合体したところで、刑部曲輪など、少なくとも三名の重臣達の屋敷があったとされる。大石家の中で「信濃守」を名乗ったのは大石照基(定基)なので、その屋敷跡だったと考えられる。
信濃曲輪・刑部曲輪・カゾノ曲輪の脇は尾根に沿って小峯《コブ》の道がある。この先は鎌倉道へ合流し、現在は都立滝山公園のトレッキングコースになっていた:
あとは、小宮曲輪の北に山の神曲輪が配置されているようだが、今回はそこまで攻めきれなかった。整備状態が良好なので、何度でも攻めたくなる城である。二の丸附近の構造が複雑で、藪が多くて写真に残しても分かりにくいのが難点。次回、また攻めてみる予定。
武蔵滝山城攻め (フォト集)
武蔵滝山城 (2) (攻城記)
武蔵滝山城攻め (2) (フォト集)
武蔵滝山城攻め (3) (フォト集)
八王子城 (攻城記)
駐車場が無いです。八王子市の職員さんらは平気で車を止めていましたが。自分はJR八王子駅北口にあるバスターミナル(No11西東京バス杏林大学行き)から滝山城址下まで片道309円で行きました。
令和2(2020)年現在は、バス停のすぐ眼の前に滝山観光駐車場がある。