石田三成の水攻めにも耐えた忍城の本丸附近には御三階櫓(模擬)が建っている

忍藩十万国の面影を残す忍城址は、現在、埼玉県行田市の中心地で行田市郷土資料館として市民に開放されている。関東七名城に謳われたこの城は、応仁の乱後の文明11(1479)年頃までには成田氏によって築城されていたと伝えられており、上杉謙信や北条氏康らとの戦いでも落城することなく、そして最も有名な豊臣秀吉による水攻めにも耐え、まさに中世の世を生き抜いてきた城と言える。この成田氏は、現在の埼玉県熊谷市上之を本拠地とし、名門藤原氏の流れを汲む武蔵国の地侍の一つであり、のちに山内上杉氏や小田原北条氏の被官となっていたが、その第十二代当主である氏長の時代に秀吉の小田原仕置に巻き込まれることになる。時は天正18(1590)年、秀吉は二十二万の大軍で北条方の支城を各個撃破しながら小田原城へ向かったが、その際に上野から侵攻した越後上杉・加賀前田ら北国口勢に、石田治部・大谷刑部・長束大蔵を付けて忍城攻略を命じた。後に佐竹義宣や真田昌幸・信繁親子らを加えた総勢二万の大軍は、忍城を包囲したものの天然の要害に攻めあぐね、石田三成は備中高松城攻めに倣って、のちに石田堤と呼ばれる全長14kmにも及ぶ堤防を築かせ、利根川や元荒川の水流を利用した水攻めを敢行した。

これも一昨年は2014年の秋に攻めてきた城で、JR高崎線の熊谷駅から自身初乗車となった秩父鉄道に乗り換え、行田市駅で下車し、行田市郷土資料館のある忍城本丸方面へ移動した。城攻めする前に、その途中で豚一家も食した行田名物で腹ごなしをした。この石田治部による水攻めについては、近年映画化もされた和田竜の「のぼうの城」でも描かれていたこともあり、お店の中や街中に宣伝用ポスターが貼られていたと記憶している。

まず、こちらは資料館とR125を隔てた所にある東照宮・諏訪神社:

成田親泰が忍城を築城した際に、持田村鎮守諏訪社を城鎮守にしたことが始まり

東照宮・諏訪神社

この東照宮は、徳川家康公の娘である亀姫が父・家康の肖像を頂き、後にこの松平忠明公に伝え、忠明公が寛永12(1625)年に大和国郡山城内に社殿を造営して、肖像画を安置したことが由緒と云う。その後、移封の都度、遷座され、最後は慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦の折に、大阪蔵屋敷内の東照宮を、この忍に合祀した。

こちらは境内にあった神木と、忍城の諏訪曲輪御門跡の碑:

寛永16(1639)年に忍城主の阿部忠秋が拝殿を建立した

諏訪神社の神木

東照宮の北出口付近にある

諏訪曲輪御門跡の碑

 

この東照宮の裏手は忍城の水堀だったところで、現在でも往時を偲ばせるかのうような池が残っていた:

当時の水堀を偲ばせるような池

諏訪神社裏手の池

当時の水堀を偲ばせるような池

諏訪神社裏手の池

 

これは、東照宮前の説明板に描かれていた忍城鳥瞰図。永正6(1509)年に忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼に囲まれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷であると、自身の日記に記していたと云う:

城の四方は沼に囲まれていた

忍城鳥瞰図

忍城が築かれた場所は、北は利根川、南は荒川に挟まれた扇状地で、忍川などの小さな川が乱流するとともに、伏流水(ふくりゅうすい)が寄り集まって広大な沼地を形成していた。そして、そこに残る小島や自然の堤防をたくみに利用して、忍城が築かれたと云う。築城者は、山内上杉に被官していた成田親泰(顕泰とも)。かの太田道灌公の遠縁にあたる忍大丞の一族を滅ぼし、その拠点に築城したらしい。

これは、忍城址から忍城通りを挟んだ東小路内に建てられていた模擬の冠木門(かぶきもん):

東小路沿いに立っている

復元された冠木門

本丸跡に建てられた御三階櫓(ごさんかいやぐら)。忍城の実質的な天守閣として機能した建物で、明治6(1873)年に解体されたが、昭和63(1988)年に再建された。現在は郷土資料館の一部として展望室や行田市の歴史史料館になっている:

明治の廃藩置県で一度は解体されたが、昭和になって再建された

御三階櫓(模擬)

一階は千鳥破風、三階は唐破風を持つ

御三階櫓(模擬)

本丸跡に復元された土塁と、鉄砲狭間のある土塀。写真右は二の丸跡で、現在は忍中学校になっている:

よく見ると△って狭間があるけど、▽の間違いでは?

本丸土塁と土塀(本丸外側)

ちなみに、こちらはその土塁と土塀を本丸内側から見たところ。塀の向こうが二の丸跡:

よく見ると△って狭間があるけど、▽の間違いでは?

本丸土塁と土塀(本丸内側)

このまま忍城の本丸南側を通って本丸へ進んでいくと、資料館の敷地の入口にあたる所に伝進修館表門が建っている。この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、かっての忍藩の藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門だと云う:

かっての藩校「進修館」の表門だと伝えられているが確定ではない

伝進修館表門(表側)

一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当時は赤彩された赤門だったとか

伝進修館表門(裏側)

 

この門は江戸期の天保3(1832)年に建立されたことが伝っており、戦災によって一度移築されていることから、藩校の門であるかは確定していないが、現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物となっている。

そして、駐車場方面へ少し出た所に本丸土塁跡がある:

本丸付近にわずかに残る土塁で、奥は三の丸跡に建つ忍中学校

本丸土塁跡

こちらは忍城のどこの門であるかは定かではないが資料館の駐車場の入口に建っていた高麗門形式の門:

忍城のとこにあった門か、復元なのか現存なのかは不明

高麗門形式の門

資料館の敷地へ入って行くと、忍城櫓の石垣が展示されていた:

忍城内にあった櫓に使用されていた石垣

忍城櫓の石垣

この石垣は、元禄15(1703)年に三階櫓が一棟、二階櫓が二棟が建てられた時の石垣だそうで、明治6(1873)年の廃城に伴い解体されたもの。

そして、こちらが本丸内部で、周囲は土塁と土塀で復元されていた:

周囲は土塁と土塀で囲まれていた

本丸内部

周囲は土塁と土塀で囲まれていた

本丸内部

奥に見えるのが行田市郷土資料館の建物

本丸内部の土塁

 

駐車場の脇をとおり、一旦、資料館の外に出て大手門方面へ向った:

木橋の奥には東門(擬似大手門)がある

大手側から見た御三階櫓(模擬)

木橋である「あずま橋」を渡り、模擬大手門として建っている東門から再び本丸内部に入った:

大手門の模擬または復元?

東門(模擬大手門)

東側の本丸も土塁と土塀で囲まれていた:

奥には鐘楼がある

本丸を囲む土塁と土塀

本丸東北隅には鐘楼(しょうろう)が建っている。現在、ここに提げられた鐘は、文政6(1823)年に松平忠堯が伊勢桑名より忍へ移封となった際に持ってきた鐘を模擬したもので、本物の鐘は郷土資料館の中に展示されている。大晦日には年越しの鐘が撞かれるそうで:

当時の鐘は郷土資料館で展示されている

鐘櫓と時の鐘(復元)

元々、鐘楼は別の所に建っていた

鐘櫓と時の鐘(復元)

 

本丸内には今でも湧き水が絶えないとか。さすが「忍の浮城(うきしろ)」:

今でも湧き水が絶えないとか

城内にある湧水

今でも湧き水が絶えないとか

城内にある湧水

 

小田原仕置の後、天正18(1590)年に徳川家康が関東に入国すると、家康の四男・松平忠吉が十万国で忍城に入城した。以後、江戸時代を通して、忍城には徳川家譜代の家臣や、親藩の大名が城主となった。寛永16(1639)年の時、老中阿部忠秋が入城して忍城大改築に着手し、彼の孫の正武の代に至り、御三階櫓の建設城門土塀の修築などが完成した。それから文政6(1823)年には松平忠堯が桑名から移封して、忠誠の時に明治維新を迎えて廃城となり解体された:

小田原仕置の後に徳川家康の四男・松平忠吉が十万国で入城した

松平家の葵紋

御三階櫓の中は郷土資料館(当時200円)の展示室になっており、最上階からは市内が一望できるようになっている。これは、その展望フロアからの眺めで、三の丸跡に建てられた行田市立中央小学校:

現在は市立中央小学校

三の丸方面

奥に見えるのは行田市役所

東小路方面(右側)

 

郷土史料館のある辺りは「行田市本丸町」と云うらしい:

(おそらく最後の砦的な町内なんだろう)

「行田市本丸町」の標示

他にも、秩父鉄道の行田市駅から資料館へ行く途中にいろいろな石碑を見ることができた。例えば「忍の時鐘楼跡」の石碑。実際にここにあった鐘楼は、先に行田名物を頂いた「お休み処 かねつき堂」の店前に移築されていたりする:

ここにあった鐘楼は「かねつき堂」の店前に移築されている

忍の時鐘楼跡の碑

このお店で行田名物の「ゼリーフライ」をいただける

移築された時鐘楼

 

他にも、いろいろな石碑が立っていた(まだまだあるはず):

行田市内の住宅地に立っていた

幕府預り米蔵・武器役所跡の碑

行田市内の住宅地に立っていた

代官館跡の碑

行田市内の住宅地に立っていた

代官館跡地に建っていた神社

 

それから、こちらは忍城址から徒歩10分くらいのところにある水城公園。ここは、かって忍城の外構えの堀で、下の写真にあるような沼が城の周囲を囲い、各曲輪は島のように点在していたと云う:

忍城の外構えの堀にあたる

水城公園

かっては、このような沼が周囲を囲んでいた

水城公園

水城公園内の「ホテイアオイ」の群生

水城公園

このあとは、石田治部による水攻めで、豊臣軍と忍城方と攻防戦が行われた佐間口古戦場跡にある高源寺を訪問し、さらに40分も歩いてさきたま古墳公園にも行ってきた。ここにある丸墓山古墳が、石田治部の本陣が置かれたところであり、そこまで歩いていったところは全て水の下に沈んでいたところでもある:

さきたま古墳公園から水城公園あたりは水攻めにあっていたところ

「ぎょうだ歴史・文化の旅」コースの案内板

 

正木丹波守利英の墓所と高源寺

水城公園近くにある高源寺には、武州忍城の成田氏長が家臣の正木丹波守利英公の墓と、石田治部による水攻め包囲戦での戦没者慰霊碑がある。ちょうど、この辺りが正木丹波守が守備していた佐間口にあたるらしい:

R77沿いの、かっては佐間口と呼ばれた忍城の虎口であった所に建つ

天真山 高源寺

お寺の門前には佐間口で戦う丹波守が描かれた看板も立っていた:

佐間口を守らんがために突撃しているかのような勢い

正木丹波守の看板

境内に建つ正木丹波守利英公の墓。小田原仕置では忍城に籠城し、佐間口で奮戦した。結局、本城の小田原城が開城したため、止む無く忍城も開城に至った。結局は一ヶ月も豊臣軍を相手に戦っていたことになり、これが坂東武者の面目を保った戦となった。戦後、成田氏長らは蒲生氏郷に引き取られたが、丹波守は戦での無常を悟り、敵味方分け隔てなく戦没者を弔わんと発心し、武士を捨てて、高源寺を建立し一心に菩提を弔い、その翌年の天正19(1591)年に没した:

先の東日本大震災では、他の墓は倒壊したが、この墓だけはビクともしていなかったとか

正木丹波守利英公の墓

先の東日本大震災では、ここにある墓石がいくつか倒壊したらしいが、正木丹波守の墓だけはビクともしていなかったとか。映画「のぼうの城」では佐藤浩市が演じていた、無骨ながら実直な武将。

最後に、彼が菩提を弔った忍城戦での戦没者慰霊碑:

正木丹波守が発心して開いた高源寺にて、現在でも慰霊されている

忍城水攻彼我戦没者慰霊碑

See Also忍城攻め (フォト集)