三度目の広島城攻めでは前回見忘れた非常に「レアな石垣」を見てきた

広島県広島市にある広島城は、戦国時代に本拠地とした毛利家が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の敗戦により周防・長門二カ国の改易された後は、豊臣恩顧の大名でありながら東軍で戦功のあった福島正則が安芸国と備後鞆49万8000石で入城し、毛利家の監視という役目を担いつつ、領国経営と城下町の整備を行っている。翌6(1601)年の正月には家臣総出で広島城の普請を行い、わざわざ近江国から石垣普請の専門家である穴太衆(あのうしゅう)を雇い入れた。当時の広島城の外郭部分は福島氏の時代に整備されたとする説が有力で、加えて洪水対策として太田川沿いの堤防を対岸よりも高くするなどの(護岸)工事が行われていたと記録されている。しかしながら、後にその天災が「仇」となる。元和3(1617)年の大洪水で破損した石垣を幕府に無届で改修するが、これが武家諸法度違反に問われてしまう。参勤交代で江戸にいた正則は幕府に謝罪し、改修した部分を破却することを約束して一度は治まったが、実際には本丸部分だけ破却し、二の丸や三の丸は対象外としたことが破却不十分として再び咎められ、結局、同5(1619)年に信濃国川中島二郡の4万5000石に減封・転封となる。正則は、その後、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居した。

先週は、2016年2月に広島出張が入ったので、早めに到着するようにして前回の城攻めで見忘れた石垣などを見てきた。それは、当時の記事にも書いてあるけれど、「しろうや!広島城」(PDF)という探検マップで紹介されていた石垣たち。城内には原爆の痕跡が残る石垣の他にも、冒頭で紹介した福島正則が破却した石垣、福島が呼び寄せた穴太衆ら石工が付けたであろう刻印付き石垣などを見ることができる。

ということで、広電・紙屋町東で下車して広島城へ。まずは表御門へ向かう途中、探検マップには「①コラボレーション石垣」なるタイトルが付いている、二の丸堀越しに見える石垣:

毛利氏の時代と福島氏の時代の石垣が「融合」している

①コラボレーション石垣

中央に見える石垣の隅石下三段にある部分が毛利氏時代の野面(のづら)積。それ以外は福島氏時代に拡張された打込接ぎ(うちこみはぎ)の石垣。洪水で崩れた際に使える部分は残して、それ以外を積み替えたという。ここが無断修復の一つと云われている。ちょうど遠目で見た、これくらいの表示倍率だとわかりやすい。

次に御門橋を渡って御門内側の石垣を見てみると原爆で焼けた石垣が残っていた。さらに門の内側は毛利氏の時代の石垣で、外側は福島氏の時代の石垣:

左側にある赤焦げた石が原爆で焼けた石垣

②表御門内側の石垣

それから表御門をくぐって二の丸に入る。奥に見えるのが太鼓櫓と多聞櫓、その手前が番所跡:

手前に見える区画は番所跡

二の丸から見た太鼓櫓

それから本丸に入る手前にある中御門跡の鏡石。こちらは毛利氏時代の石垣で、城内で一番大きな石を持つ:

真中下にあるのが城内で一番大きな石

③中御門跡の鏡石

この毛利氏の時代の石垣も原爆の火災で門と一緒に石も赤く焼けてしまった:

原爆で中御門と共に焼け焦げた石垣

④中御門跡の焼けた石垣

本丸下段を抜けて、本丸の北東部へ移動する途中には、本丸上段を囲んでいる土塁が目に入る:

元々は石垣だったが破却された後は土塁のまま

本丸上段と下段を隔てている土塁

この土塁の向こうに、福島正則が幕府に申し開きする際に破却した石垣が残っている。しかし、実際に改修したのは①の石垣であり、ここまで崩したにも関わらず幕府(徳川秀忠)からは許してもらえなかった:

正則が無断改修をとがめられ石垣を崩した跡

⑤福島正則の破却石垣

この石垣は、さらに毛利氏時代の石垣との「コラボレーション」した一部でもある。写真左上(木の裏側)は福島氏時代の打込接ぎ、写真右下は野面積みで毛利氏時代のもの。改修した境界線がよくわかる:

打込接ぎと野面積みの融合

⑦毛利時代と福島時代の石垣

こちらは、石垣を持つ城ならば、どこでも見ることができる暗渠(あんきょ)と呼ばれる排水溝。石垣に水たまり、水の力で崩れないように排水し石垣の外に出す溝:

排水するための溝と排水口

⑧暗渠(樋門)

排水するための溝と排水口

⑧暗渠(樋門)

 

ここから本丸の西側へ移動するが、西北隅には外観復元の天守閣がある:

本丸東側から見た外観復元の天守閣

天守閣

そして天守台の隅石は実は未完成だったとか。なんと、算木積(さんぎづみ)っぽく傾斜をつけるために石を斜めにカットしたものらしい。ものすごく手間のかかった石垣になっている:

(それっぽく見せただけの石垣!?)

⑨天守台の隅石

こちらは天守閣の小天守台に備え付けられた暗渠:

天守台に取り付けられたもの

⑩暗渠(樋門)

その隅石。これぞ広島城一の算木積だとか。長辺が短辺の三倍はあるようで:

(⑨の隅石にかけた手間はなんだったんだろう!?)

⑪小天守台南の隅石

そして地中に埋められた排水溝の跡:

こちらも排水溝

地中に埋められていた樋門

そして、これらは城内各所にある福島氏の時代の刻印付きの石垣。なんと、その数はおよそ39種類200個にものぼるらしい:

本丸北東隅附近で見つけた石垣

⑥刻印付きの石垣

本丸南西隅の石垣で、隅石に刻印が付いている

⑥刻印付きの石垣

本丸西北隅の天守台に付いていた刻印

⑥刻印付きの石垣

これは本丸礎石。現在の天守閣再建に際して、もとの天守閣柱下にあった礎石を掘り起こして原型のまま移築して展示しているもの。玉石排水溝の内側が本当の天守台の大きさに相当し、一段低く据えてある石は今なお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している:

実際のレイアウトで移築したもの

天守閣の礎石

最後に天守閣:

本丸北東の天守台下から見上げたところ

天守閣

本丸登城道から見上げたところ

天守閣

 

ということで、前回の城攻めで「心残りだった」貴重な石垣たちを見てきた。ざっと見て回るだけなら30分くらいあれば十分だった。

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