15世紀末、伊勢新九郎(のちの北條早雲)が伊豆を平定し、駿府の今川氏親の協力を得て小田原城を奪取して居城とした後は、小田原北條氏五代によって、明応4(1495)年から天正18(1590)年の約100年にわたり、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の関八州の他、伊豆・駿河に勢威を及ぼした。この時代の小田原城は現在の小田原高校近くにある丘陵上に本丸などいくつかの曲輪を配置したもので、八幡山古郭《ハチマンヤマ・コカク》と呼ばれている。そして上杉謙信や武田信玄といった名だたる戦上手が率いる軍勢をも寄せ付けることなく、難攻不落の城として、戦国時代最大と云われる規模に整備・拡張されていった。特に太閤秀吉による小田原仕置の直前に完成した、小田原城とその城下を囲う周囲約9kmにも及ぶ総構《ソウガマエ》という大規模な堀切(空堀)と土塁は、現在でも小峯御鐘ノ台大堀切や早川口遺構などで、その面影を偲ぶことができる。
一昨年は、平成26(2014)年の小田原城攻めでは徳川時代のものとして復元されている近世城郭を見てきたが、昨年は2015年の秋に再び攻めた時は、戦国時代の中世城郭として巨大な堀切をはじめとする遺構や復元された曲輪等を見てきた。その多くは宅地化されたりミカン畑になっていたりするが、それでも一部は良好な状態で残されているところがあり、見る価値は十分にあったと思う。また小田原市のHPには『小田原城総構を歩こう』といった詳しい地図(PDF)も公開されていたので参考にした。
後北條時代の小田原城
JR小田原駅西口を出て北條早雲公に挨拶した後に、R74のある小田原高校方面へ歩いて行った。そして高校へ向かう坂の入口に立つ信号付近に八幡曲輪跡の碑がある。八幡曲輪は、古くは「裏大門」と呼ばれていたところで、「八幡曲輪」という名は武家屋敷地があったことからきている:
この碑がある角の坂道を上って本丸八幡山方面へと向かう。現在は小田原市立城山中学校とその周辺の住宅街が八幡曲輪にあたり、この坂に沿って武家屋敷が建っていたと云う:
これは坂の上から眺めた小田原市内の光景:
本丸八幡があった八幡山:
この地には二つの八幡社があった。その一つは、北條氏が鎌倉八幡宮から勧請《カンジョウ》[a]神仏の分身を他に移すこと。したといわれ、江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので、「新御宮」または、「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものになっている。
そして本丸八幡の斜め向かいが鍛冶曲輪跡:
鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北條氏時代の小田原城の重要な曲輪であったと考えられる。この地には早くからこの地名が付いていたが、江戸時代前期の寛文2(1662)年、小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工・藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山佳藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。
左手に神奈川県立小田原高校を見つつ、さらに西へ進み、三叉の道路のうち、真中の道に入っていくと毒榎平《ドクエダイラ》跡にたどり着く:
この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城の三の丸外郭の遺構で小田原北條時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた総構が完成するよりも前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。ちなみに、「毒榎」とは植物の油桐のことのようで、ここで栽培されたという記録は残されていないらしい。
これが現在の毒榎平跡:
これまた左手に毒榎平跡を見ながら、さらに西へ向かって進んでいくと総構以前に造られた、三の丸の外郭に相当する小峯御鐘ノ台大堀切東堀《コミネ・オカネノダイ・オオホリキリ・ヒガシボリ》がある。これは毒榎平の裏にある東堀と、現在は道路となっている中堀、そして、その西側にある西堀の三本の堀切全体の総称である:
東堀は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断し、敵の進撃を遅らせるための防衛施設で、小田原北條時代末期に造られたものだと云う。まさに小田原城の西を防衛する最も重要な場所であったと考えられている:
この東堀は、当時の状態が最も良く残っており、幅が約25〜30m、深さは土塁の頂上から堀底まで約12〜15mあり、堀の法面は50〜60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模に入るという。
発掘調査によると、堀には北條氏特有の遺構の一つである障子堀の他、土橋状の掘り残し部分や、横矢折れと云われる「クランク」部分などが設けられていることが確認された。
これは土橋状の掘り残しの部分から北側を振り返って見たところ。向こうにみえる道路が中堀にあたる:
東堀の堀底を南へ進んでいくと横矢折れが見事な状態で遺っていた:
小峯御鐘ノ台大堀切東堀の遺構を出て、道沿いに小田原市立城南中学校方面へ移動すると御鐘ノ台《オカネノダイ》がある。天正18(1590)年に太閤秀吉の小田原攻めに備え、北條氏が小田原城大外郭を設けた時に、この地は城域に取り入れられた。ここ御鐘ノ台付近は小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最も良く残っているところである。地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が起れていたためと云われている:
こちらは、小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北にあった御前曲輪。この地は今も底の広い窪地であり、以前は土塁や空堀を持つ城郭であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。現在は、城山陸上競技場になっていた:
そして、こちらは東海道本線より手前の足柄街道沿いにある八幡山古郭東曲輪。八幡山の東端にあたる曲輪で、平成27(2015)年に復元が完了し開放されている。ここは、八幡山遺構群とも呼ばれ、小田原駅の南西に位置する丘陵上に東曲輪などいくつかの曲輪を展開し、後北條時代の小田原城を形成した場所である:
この東曲輪は、平成17(2005)年に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫等と考えられる方形竪穴状遺構や堀立柱建物跡が発見されたことから、戦国時代にはこうした施設が建てられていた曲輪だったと考えられている。また縄文時代の土器や石鏃《セキゾク》が出土した他、古墳時代の方形溝墓も発見されたことなどから、八幡山一帯では古くから人々の生活が行われていたことが判明した。
こちらは東曲輪に登って小田原城下を眺めたところ:
天正18(1590)年の小田原合戦の時に秀吉が本陣を据えた石垣山(一夜)城も望むことができた:
同じく、こちらは東曲輪からのパノラマ眺望:
なお、この平成27(2015)年に攻めた時は耐震改修工事の都合で本丸の天守閣はこんな感じで休館していた:
このあとは城址公園近くで腹ごなしをして、R74(小田原山北線)沿いを北上し、ぐるりと小田原城総構を見て廻ってきた。
小田原城総構
R74沿いに北上すると右手に「丹羽病院」という建物が見えてくるので、そこから数えて一本目の脇道を左折して、すぐ右にある坂を上って行く[b]少しわかりづらい。。それから一本目くらいの脇道へ右折すると住宅地の真中に、なにやら空き地のような場所があり、「国指定史跡小田原城跡・総構城下張出(平場)」という茶色の看板が建っている。そして、そのまま道なりに坂を少し降りていくと、同じような看板で「国指定史跡小田原城跡・総構城下張出(堀)」と云う看板が立っている空き地がある。ちょうど先に見た平場の下にあたる場所にのこる遺構である。
ちなみに小田原北條氏時代の小田原城構築法は、内城(本丸、二の丸、三の丸など)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦火から保護するとともに、城外に雄大な防御線を張ろうとする構えであり、当時これを「総構」「総曲輪」と呼び、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」とも云われている。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北條氏三代氏康の時代の永録年間頃から造り始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原合戦が始まる直前の天正18(1590)年早春に完成したものと思われる。
ということで、先ずは総構城下張出(堀):
ここは、小田原城総構城下張出《オダワラジョウ・ソウガマエ・シロシタ・ハリダシ》の東側を巡る空堀があった場所で、現在でも雛壇状に東方面(写真の左側)へ堀が下がっている様子が伺える。
これが、その雛壇状に下がっている総構北側山ノ神尾根筋の城源寺縦堀(東側から見上げたところ):
再び坂を登って城下張出平場へ。この付近は小田原城総構から部分的に外側へ張り出す形で平場が造られていた。これにより横矢掛りという同時二方面からの攻撃が可能になる:
さらに元来た道を上って行くと、先ほどの平場を挟んで反対側に障子堀跡がある。現在は茶畑になっているが、もともとは堀跡で、障子堀になっていたと考えられる:
そししてさらに西へ道なりに歩いて行くと、徳川時代の小田原城天守閣と北條時代の八幡山古郭が同時に眺められる場所があった(左にある小さな工事中の小田原城天守閣と、その右にある八幡山の丘陵):
さらに西へ進んでいくと総構山ノ神尾根筋の台西から堀切東の部分を観察できる二又にさしかかる。この場所は土塁と空堀の跡が良く残されていることから昭和13(1938)年に国の史跡に指定されたようだ:
現在、総構の遺構を良好に残している場所は少なくなり、中でもこの付近には丘陵の斜面に掘られた空堀と、それに沿って造られた掻上げ《カキアゲ》と呼ばれる土手の跡が良く残されており、当時の城造りの様子が大変良くわかる貴重な場所となっている。とは言え、ここから先はずっとミカン畑になっていたけど[c]おまけに、自分たちの畑の腐ったミカンを平気で遺構に捨てていた農家なんかもあったし。。
なお、この二又を右へ進むと関東学院大学の小田原キャンパスにつきあたるので、今回は左の農道みたいな細い道へ進み、ちょうど城山陸上競技場の裏をまわる感じで遺構を見ていくことにした。
そして次に遭遇した遺構は、先ほどの総構北側山ノ神尾根筋の先にある山ノ神堀切で、この場所には谷津丘陵を横断する堀切があり、これにより谷津丘陵は東西に分断され、それぞれ独立させる効果を持っていたと考えられている。また、ここは荻窪口という城の入口にあたるらしい(豊臣方の使者として黒田官兵衛が小田原方に降伏勧告をしに行った場所とも):
さらに農道を進むと小田原城総構を構成する空堀の様子が竹林のなかにみることができた(稲荷森):
城山陸上競技場をぐるりと超えると、午前中に攻めた小峯御鐘ノ台大堀切の中堀跡に相当する道路に出る。ここで再び小峯御鐘ノ台大堀切東堀の素晴らしい堀切具合を見て:
そこを抜けて蓮船寺付近から城南中学校沿いに、さらに西へ歩いて行くと小峯御鐘ノ台大堀切の西堀跡がある:
この場所には、箱根外輪山から続く尾根筋を断ち切るように築かれた三本の堀切(小峯御鐘ノ台大堀切)のうち一番西側に位置する堀があった。現在はその大半が埋められているが、北側には空堀と土塁が良好に残っていた。
さらに進んだ所にある香林寺山西あたりの道沿いには土塁が残り、その左側には空堀もあった(現在は城南中学校のグラウンド):
この山道をさらに西へ進んでいくと、一面開けた丘陵にたどり着く。ここからの眺めからも総構の規模をうかがい知ることができた:
ここからの相模湾や丹沢の山並みは絶景で、かの北原白秋も絶賛していた:
この眺望をパノラマで:
なお往時の総構は、この先で折り返り、一度東方面へ延びてから南方面の相模灘に向かって延びていた。その折り返し地点の最先端は水ノ尾口と呼ばれており、現在は産廃業者の敷地になっていて、残念ながら中を伺い見ることはできなかった:
ここから三度、小峯御鐘ノ台大堀切へ戻り、その中堀跡を通り、中堀と東堀の合流点を抜けて小田原高校方面に進んだ:
小田原高校の前の交差点あたりにも遺構が残っており、こちらは八幡山大堀切跡で、ここには現在の駐車場の二本の木の間を通った尾根筋を分断する大堀切があった:
さらに小田原高校のグラウンド端には、西曲輪西堀と三味線堀が復元されていた:
北條氏時代の小田原城の本曲輪は、小田原高校の弓道部の奥にある小高い場所だったとか。そして西曲輪跡は、同じく小田原高校のグラウンドになっていた。今回は立ち入りも撮影もできず校門だけ:
今回は後北條氏時代の小田原城と、巨大な総構を見てきたが、遺構を見つけるのに道に迷ったり一苦労したため、実際はかなりの距離を歩いたように思える。しかしながら、きちんと保護され良好な状態で残っている遺構を見ると小田原市の苦労が伺えた。
こちらは毒榎平跡の広場で見かけた注意書き:
北條氏政・氏照の墓所
なお小田原北條氏は、天正18(1590)年3月に始まった小田原合戦では約五万の兵で籠城したものの、八王子城が落城したことがきっかけで同年7月5日に当主氏直は降伏し、7月9日に城が明け渡された。そしてこの戦の責任をとり、城主氏直の父である氏政と、その弟の氏照は切腹させられた。また氏直は高野山に追放され後に亡くなり、小田原北條氏は滅亡した。
氏政と氏照の亡骸は伝心庵に葬られたが、この寺院が移転してしまい墓だけ永らく放置されたままだった。そして江戸時代の小田原城城主の稲葉氏の時代に後北條氏追福のため再建するも、関東大震災で埋没し一時行方不明となり、その後は地元の有志により復興され、その場所がJR小田原駅近くの繁華街の真中にあった。この墓地には五輪塔、笠塔婆、型墓碑、石灯籠の他に、氏政・氏照がこの石の上で自害したと伝わる生害石がある:
小田原城攻めー後北條時代 (フォト集)
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