城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

八王子城 − Hachiōji Castle

八王子城の大手道から曳橋ごしに眺めた御主殿虎口

東京都八王子市にある八王子城は、小田原北条氏(後北条氏)の三代目当主・氏康の三男、北条氏照が築いた山城である。天正年間(1573〜1592)に築城が開始され、天正12(1584)年から同15(1587)年の間に、それまでの居城であった滝山城から拠点を、ここ八王子城に移した。ちなみに氏照は、信濃国木曽氏一門で武蔵滝山城主であった大石定久の娘と養子縁組して、大石源三郎氏照と名乗り、のちに大石家の家督を譲られると武蔵国の国衆を束ね、その支城のネットワーク化に尽力した。氏照は大石家の家督を継ぐと同時に滝山城を居所としたが、小田原城攻略に向かう途中だった武田信玄率いる甲州軍二万に攻め込まれ、三の丸まで突き崩されて落城寸前まで追い込まれたものの、辛くも凌いだという経験から平山城での防衛に限界を感じ、山城の築城に着手したのが八王子城のはじまり。この時、氏照が構想していた城郭は壮大で、織田信長の安土城を参考にしたとも云われている。その後、豊臣秀吉による小田原仕置が始まり、天正18(1590)年に加賀前田、越後上杉、信州真田ら北国口勢に攻められて落城した。この時、城主の氏照は本城の小田原城にて籠城していたため、八王子城防衛は城代・横地監物吉信とその家臣らの僅かな兵の他、農民や婦女子を加えた三千で籠城していたが激戦の末、一日で落城、氏照正室を始めとする婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血の色に染まったという。この落城が決め手となり、本城の小田原城も開城・降伏することになり、主戦派だった氏政と氏照は城下で切腹となった。その後、当主・氏直も配流先の九度山で亡くなり、ここに小田原北条氏は滅亡した[a]実際のところは小田原北条三代目氏康の五男で氏政の弟にあたる氏規とその子氏盛の代には、1万1000石で河内狭山藩主として大名に列している。

こちらも一昨年は平成26(2014)年の秋に、どちらかと言えば、いつもの城攻めよりは近場にある八王子城を攻めてきた。以前から八王子城の存在は知っていたものの観光としても行くことはなかったが、聞くところによると、都内では知る人は知るトレッキングコースが整備されているようで。まぁ、それもそのはずで、実際に見てみると山城たる八王子城の城郭(ひな壇状の曲輪など)を利用したコースになっていて納得した。

まずこちらは城跡の管理棟で配布していた「八王子城遺構鳥瞰図」:

落城前の縄張のようだ

八王子城遺構鳥瞰図

そして城跡の前に建っていた案内板:

戦国時代を代表する城跡として、現在約154haの範囲が国の史跡に指定されている

史跡 八王子城跡の案内板

これは駐車場横にあるエントランス広場に展示されていた八王子城全景の地形模型。八王子城は深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、そして麓の平地など、自然の地形を利用した城郭となっており、特に山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪を何段も縦に並べていた。また、城はおおまかに城下町にあたる根古屋地区と、城主の館などがあった御主殿の居館(きょかん)地区、そして戦闘時に要塞となる本丸の要害地区とに分けられ、その範囲は少なくとも東西約2km、南北約1kmに及んでいた。この城は豊臣秀吉の小田原仕置で落城したが、その時点でも未だ未完成だったとか:

変化に富んだ地形を巧みに利用して築かれた山城である

八王子城地形模型

これは八王子城跡の碑で、その背後にある建物が八王子城管理棟:

右に見えるのが管理棟で、詳しい史料を手に入れることが可能

史跡 八王子城跡

なお、八王子城の名前の由来は、城主・氏照が新しく築いた城の守護神として八王子権現を祀ったことからきている。

まずは管理棟前の道を渡って「古道・御主殿跡」という看板に従い、大手門跡へ向かった。この林道を進んでいくと城山川を渡る橋が架かっており、それを渡って上って行くと古道(こどう)につながる:

現在の城山川はかなり細くなっていた

大手門跡へ向かう途中にある橋

正面の階段を登ったところが大手門跡

大手門前広場

復原された竪堀とそれに架かる木橋の先(右)が古道

大手門前広場

現在は埋め戻されているため遺構は見えないが、昭和63(1987)年の発掘調査で門の礎石や敷石が見つかった。ちなみに城の表門にあたる大手門が正面口とすると、裏口にあたる搦手は城の北側の恩方方面にあったとされ、滝の沢口とも霧降ケ谷とも呼ばれていた:

発掘された礎石や敷石から薬医門形式であると考えられている

大手の門跡と大土塁(右側)

八王子城の正面口にある空堀

大手門の空堀

尾根を分断した堀切

大手門堀切の上部

大手門跡を抜けてさらに西へ進んでいくと、小田原北条氏の時代に御主殿へ入る道として使われていた古道になる。往時は、さらに下流に向かって延びていたと考えられ、門跡の存在や橋台石垣の発掘、さらに平坦部が尾根の中腹に連続しているなどから、ここが御主殿に至る大手道であったことが明らかになった:

この先を進むと御主殿へ渡る曳橋がある

城山川右岸にある古道

現在の道は古道跡の地形を利用して整備したものである。なお、あとで通ることになる、城山川左岸にある林道は江戸時代に入って新たに造られたものである。
このまま古道を進んでいくと御主殿へ渡るために再現された曳橋(ひきばし)が見えてくる:

当時の道筋を再現するために架けられた橋

曳橋(再現)

発掘当時は橋の土台である橋台部が残っていただけで、実際にどのような構造の橋が架けられていたのかはわかっていないらしい。そのため、この橋はあくまでも古道から御主殿で続く道筋を再現するために、現代の技術で戦国時代の雰囲気を考えて造られたものらしい:

城山川の右岸にある橋台石垣を想定復元したもの

橋台石垣と曳橋

城山川左岸の斜面に想定復元された橋台石垣

橋台石垣と曳橋

往時は、この橋台石垣に簡単な木橋を架け、戦時にその橋を壊して敵の侵入を防いだものと考えられる。現在の橋台は、発掘された石垣の崩れた部分を新たに補って想定復元している:

対岸に見えるのが御主殿虎口と櫓門跡

再現された曳橋から対岸を望む

当時は老朽化が懸念されて通行止めだった

再現された曳橋から対岸を望む

城攻め当時、この橋は老朽化のため立入禁止だった。たしか八王子市議会でも架け直しするかしないかで揉めていた記憶がある。そのため、古道を引き返し、大手門跡を抜け、城山川の対岸に造られた新しい大手道を進むことにした。

こちらが城山川左岸の大手道と、その先にある曳橋:

左側に見えるのが城山川

江戸時代に造られた大手道

往時も、対岸の古道から御主殿へ渡る橋が架かっていたと云われる

大手道から見上げた曳橋(再現)

対岸は大手道

曳橋(再現)の橋脚

当時は老朽化が懸念されて通行不可だった

大手道側の橋台石垣(想定復元)

曳橋をくぐって、西へ向かうとは御主殿の滝がある。ここは、落城時に御主殿にいた氏照の正室を含む婦女子らが滝の上流で自刃して次々に身を投じ、その地で城山川の水は三日三晩赤く染まったという伝説が残っている:

落城時に多くの婦女子が身を投じたと云う (合掌)

御主殿の滝近くの菩薩様

現在の曳橋(当時)をくぐって、その橋台石垣を見上げると、古い曳橋が架かっていた虎口が残っていた:

木戸が立っている所が旧曳橋が架かっていた虎口

この当時の橋は古い虎口の隣に架けられた

そして、この時は通行止めだった曳橋からは直接、御主殿には入れないため、橋の横にある坂道から上がった。ひとまず御主殿は後回しにして、先に曳橋から続く御主殿虎口を確認するために再び降りることにした。

これは御主殿側の橋台石垣から見た曳橋と、城山川を挟んで対岸にある古道(大手道):

橋台石垣は発掘された石垣を元に想定復元された

御主殿側から見た曳橋と対岸の大手道

仮に曳橋(木橋)から御主殿に入る場合、橋を渡った位置から御主殿内部までの高低差約9mを、「コの字」形に折れ曲がった階段と通路を使って上ることになる:

これも想定復元らしい

曳橋から御主殿虎口へ続く枡形

奥を左に折れると曳橋があり、手前は御主殿虎口

曳橋から御主殿虎口へ続く枡形

御主殿虎口に向かって「コの字」形に折れ曲がった階段通路

御主殿へ続く石段

なお、この虎口の石垣は、土中に約400年もの間、崩れずに残っていたものを発掘した時の状態のままにしてあるのだそうで、中世の石積様式を示す貴重な史料となっている。その特徴は、城山山中から産出する砂岩を利用して、一つ一つ丁寧に積み上げ、その隙間に小石を詰めて全体を堅固な石垣にしていること。また石垣の勾配が急で、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴である。

この御主殿虎口の石段は、全体で25段、踏面(ふみづら)が平均1mほど、蹴上(けあげ)が36cmで、約5mの幅を持つ。途中、二ヶ所に踊り場があり、全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものである:

「コの字」形に折れ曲がった階段通路になっている

御主殿虎口の石段

そして、この踊り場からは四つの建物礎石が発見されており、想定される建物としては、物見や指揮をするための櫓門であった可能性があるという。また、礎石のそばには排水用の石組側溝も発見されている。現在は、礎石や石組側溝他、大部分の石垣は当時のものをそのまま利用して復元しているらしい:

四つの礎石が見えるが、ここには四脚門形式の櫓門が建っていたと考えられている

御主殿虎口から見下ろした踊り場にある櫓門跡

御主殿虎口の石段を登って左に折れると、御主殿入口に冠木門(かぶきもん)が建っている。この門も、当時の門をイメージして建てられた想定復元の一つ:

御主殿入口に建つ想定復元建築物

冠木門(外側)

御主殿入口に建つ想定復元建築物

冠木門(内側)

そして冠木門をくぐると御主殿跡が広がっていた:

北条氏照が居住していた所

御主殿跡

またまた御主殿跡を探索する前に、ここから「コの字」形になった御主殿虎口の石段を見下ろしてみた:

これらは当時の石垣をそのまま利用して復元していた

「コの字」形の御主殿虎口

石段の踊り場には櫓門が建っていた

「コの字」形の御主殿虎口

右下が旧曳橋の虎口

「コの字」形の御主殿虎口

以前は、現在の曳橋の橋台石垣横から対岸に向かって斜めに架けられていた

御主殿跡から見下ろした曳橋

で、やっとここから御主殿跡を見て回ることに。

なお、江戸時代に描かれた古図によると、「北条陸奥守殿御主殿」と書かれており、この御主殿には氏照が居住していたと考えられている。落城後は、江戸幕府の直轄領となったり、昭和になって国有林であった経緯から、ほとんどが手を付けられること無く、中世時代そのままの状態で残っていたと云う。そして、発掘調査の結果、建物の礎石や水路跡、多数の遺物が出土し、現在は礎石などの位置がわかるように復元敵整備を行っていた:

中国製の陶磁器やベネチア産のガラス器など氏照の生活場としての遺構が発掘された

御主殿裏の礎石建物跡(会所)

左の写真は敷石通路跡。会所の建物に沿って幅4.2m、長さ19.2mの範囲に石が敷かれていた。通路の中には二本の溝があり、右側の溝は会所の雨落溝と考えられているが、左側の溝の性格は不明。この敷石通路は会所に伴うものであり、何らかの儀式で使われたと思われる。右の写真は道路状遺構で、幅が約3.2m、確認された長さでも15mもあり、北東(写真手前)と南西側(写真奥)はそれぞれ石囲い水路に、北西側は石列によって区画されているのがわかる。路面は平坦であるものの、突き固められているというわけではないと云う:

会所の建物に沿って石が敷かれていた

敷石通路跡

会所前に復元されており、長さは15mもある

道路状遺構

これらは主殿跡。城の中心となる建物や政治向きの行事がとり行われた場所と考えられており、広さは15間半x10間(29.4mx19.8m)で、折中門(おれちゅうもん)と呼ばれる玄関から出入りするようで、大勢の人が集まる「広間」や、城主が坐る上段などがあったとされる。建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく板葺きか檜皮葺(ひわだぶき)であったと思われる:

政治を取り仕切る建屋があったとされる

主殿跡

こちらは床面復元はされずに礎石群のみが平面復元されていた

主殿跡

会所の真裏にあった

庭園跡

発掘調査の結果、大型の礎石建物跡が出てきた

復元された会所

復元で使用された石材は、城付近で採取された硬質砂岩を使用している

会所と、それに沿って復元された敷石通路

復元で使用された石材は、城付近で採取された硬質砂岩を使用している

会所と、それに沿って復元された敷石通路

現在は、御主殿跡で発掘された遺構の上に60cmほどの盛土をし保存し、その上に建物の礎石や庭石、通路の敷石、水路等を忠実に再現している。この再現で使用されている石材は、近隣で採取された八王子城跡と同種の硬質砂岩を使用しており、目に入る庭石はコンクリート製の疑岩で覆い、遺構として確認された範囲には、小舗石を並べてその範囲を明示しているのだとか。

御主殿巡りを終えたあとは、再び管理棟へ戻り、そこから山下曲輪、アシダ曲輪、そして「八王子城跡自然公園」なるトレッキングコースから本丸を目指すことにした。

まずは山下曲輪:

アシダ曲輪跡の下段にあたる

山下曲輪跡

山下曲輪の上段は、アシダ曲輪で、その間は竪堀(堀切)があり、橋で渡れるようになっていた:

曲輪の周囲を囲むように掘られた堀切

山下曲輪とアシダ曲輪の間の竪堀

橋の下は竪堀(堀切)だった

山下曲輪とアシダ曲輪の間に架かる橋

山下曲輪の上段にあたるアシダ曲輪跡(道なり左奥)。「慶安古図」に「アシダ蔵」と書かれており、二〜三段の曲輪群からなり、館や倉庫があったと考えられている。小田原仕置の時は、近藤出羽守が守っていたといわれている。この上には観音堂がある:

あしだ曲輪へはボランティアが一緒じゃないと入れないらしい

アシダ曲輪(左奥)と観音堂

この観音堂は有名な心霊スポットらしく、夜になるとたくさんの武士やその奥方と思われる女性が次々に現れるという。だから、この先はボランティア同伴じゃないと入れないのかも(そんな看板が立っていた)。

そして管理棟の横にある坂を上って行くと「八王子城跡自然公園」という案内板とともに、いかにも山道っぽい登城道が見えてくる:

案内板には、頂上まで40分と書かれていた

八王子城跡自然公園の登城道入口

この登城道をしばらく上ると、二又に差し掛かる。左へ進むと、いわゆるトレッキングコースで頂上を目指し、右へ進むと古道らしく、かなりの荒れようだった。途中、崩れているところもあるとかないとか。ということで、左へ進むことにした:

本丸へ続く登城道

こんな感じの坂を40分ほど上ることになる

途中、排水溝のように坂に対して斜めに石が積まれていた箇所を何度か目撃したが、その用途は不明:

(近年につくられたものだろうか)

石積された溝

(近年につくられたものだろうか)

石積された溝

こんな感じの坂を40分ほど上ることになる

さらにどんどん上る

登城路に沿って小さな曲輪が階段状に配置されていた

これが段曲輪跡の一つ

尾根に沿って、ちいさな曲輪がひな壇状に配置されている馬蹄段の上には、金子丸と呼ばれる曲輪がある。ここは、小田原仕置の時は金子三郎左衛門家重が守っていたと云われている:

尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防いでいた

金子丸(金子曲輪)

金子丸を過ぎると、さらに山道の勾配が大きくなってくるが、柵門跡が見えてくると、頂上がそろそろの位置である。この門跡は、山頂の本丸方面へ続く登城道の尾根の上に築かれた平坦な地であった:

名前の由来など詳細は不明だとか

柵門跡

柵門跡を抜けて、さらに本丸方面へグネグネ坂を進み馬廻り道を過ぎたところで、左側が断崖絶壁となったところにたどり着く。ここからの八王子市内の眺望は素晴らしい。この上の本丸は木に囲まれて視界が悪いため、ここと小宮曲輪が絶好の眺望スポットになっている。よく晴れた日には、北は筑波山、南は房総半島まで一望できるというが、本当だろうか:

空気が澄んでいると、新宿やスカイツリーも目視できるとか

馬廻り道付近からの八王子市内の眺望

この日は晴れてはいたが空気は靄っていて、残念ながら視界は普通だった

馬廻り道付近からの八王子市内の眺望(パノラマ)

そして、この先へ進むと中の曲輪で山頂に到着する:

ここは中の曲輪にあたる

深沢山(城山)の山頂

(八王子城跡は、さまざまな動植物が生息し、四季折々の様子が楽しめる)

中の曲輪に堂々立つ巨木

中の曲輪には八王子神社が建てられていた。氏照が城の守護神とした八王子権現を祀っており、スサノオの八柱の御子神である。左手奥に見える小さな祠は、八王子城の戦いの際の城代だった横地監物を祀る横地社:

スサノオの八柱の御子神を祀る神社である

八王子神社

横神社の隣には天狗の石像が建っていた。高尾山の天狗信仰から建立されたようである:

高尾山の天狗信仰から建立された

天狗像

そして神社の真上にあたる(標高は約460mの)場所に本丸跡がある。八王子城の戦いの中心で、最も重要な場所であるが、平地部分がそれほど広くないので、物見櫓程度の建屋が建っていたと考えられている。城代・横地監物吉信が守備していた:

松木曲輪、中曲輪の上にある

山頂曲輪(本丸)跡と碑

狭いながらも、物見櫓相当のものが建っていたと考えられる

山頂曲輪(本丸)跡

小田原仕置では、豊臣方の北国口勢・前田利家軍が城の大手口を、同・上杉景勝軍が搦手口に分かれて攻め込んできた。城主氏照は小田原城で籠城していたため、留守を横地監物・中山勘解由らの重臣が守備していた。彼ら城兵は奮戦したが、ついには搦手側が破られ、ついで大手側も陥落、重臣らの多くが討死して、一日で八王子城は落城した。

こちらは本丸下の松木曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれていた。近くに坎井(かんせい)と呼ばれる湧水を利用した井戸がある。小田原仕置では、中山勘解由(かげゆ)家範(いえのり)が守備しており、北国口勢の前田利家隊と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。この家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、彼の遺児が水戸徳川家に取り立てられ最終的には家老にまでなったという:

ここからの眺望は高尾山方面を一望でき、晴れていると富士山も見えるとか

松木曲輪

こちらからの眺望もやや霞が入ってしまった:

八王子市内の他に、空気が澄んでいると新宿副都心のビルまで見えるとか

松木曲輪からの眺望

そして、こちらは松木曲輪と八王子神社を隔てて反対側にある小宮曲輪。小田原仕置では狩野一庵の部隊が守備した曲輪で一庵曲輪(とも三の丸)とも呼ばれている。北国口勢の上杉景勝の軍勢による奇襲にあって陥落した:

正面の社では御岳神社が祀られていた

小宮曲輪

小宮曲輪の腰曲輪にあたる

小宮曲輪から本丸へ向かう山道

このあとは下山して、北条氏照公の墓所をお参りしたが、後日、本丸の先の尾根づたいには詰め城なる最終防衛ラインが存在していたことを知った。残念。次回の攻城戦で攻めることにしたい。

こちらは八王子城の展示スペースと休憩所を兼ねたガイダンス施設にあった注意書き:

(山城なので常に注意したい)

ガイダンス施設に立っていた注意書き

 

北条氏照の墓所

北条氏照公の墓所は、小田原城攻めした際にJR小田原駅近くでもお参りしたが、ここ八王子城の麓には、松木曲輪で奮戦した中山勘解由の孫で、その後に水戸藩家老になった中山信治が氏照の死後100年忌の追菩供養のために建てたもの。そして、その両脇には家臣であった勘解由と信治自身の墓があった:

氏照公は兄の氏政公とともに戦争責任で切腹となった

北条氏照及び家臣墓

元禄二(1689)年と刻まれている

北條陸奥守氏照公供養塔の背面

場所としては、八王子城跡に入る手前で、ガイダンス施設のさらに 手前にある細い道を上って行くとある。

See Also八王子城攻め (フォト集)
See Also八王子城(2) (攻城記)
See Also八王子城(御主殿)攻め (フォト集)
See Also八王子城(太鼓丸)攻め (フォト集)
See Also八王子城(3) (攻城記)
See Also八王子城(詰城)攻め (フォト集)
See Also北條氏照公墓所 (フォト集)

 

参照

参照
a 実際のところは小田原北条三代目氏康の五男で氏政の弟にあたる氏規とその子氏盛の代には、1万1000石で河内狭山藩主として大名に列している。

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    安芸吉田の郡山城を小さくしたような山城。なかなか登りごたえのある山道や山頂からみる景色は絶品。
    あと駐車場近くにあるガイダンス施設では北条家の歴史などがビジュアルで楽しめる。
    あと、ここでカメラカバーを失くした。もしかして身代わりになってくれたのかも。暑い日だったのに、やはり冷たい空気が流れているところがあったから。

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