忍藩十万国の面影を残す忍城址は、現在、埼玉県行田市の中心地で行田市郷土博物館として市民に開放されている。関東七名城[a]誰が云ったかは知らないが、他に唐澤山城、河越城、忍城、厩橋城、宇都宮城、そして多気城がある。に謳われたこの城は、応仁の乱後の文明11(1479)年頃までには成田氏によって築城されていたと伝えられており、上杉謙信や北條氏康らとの戦いでも落城することなく、そして最も有名な豊臣秀吉による水攻めにも耐え、まさに中世の世を生き抜いてきた城と言える。この成田氏は、現在の埼玉県熊谷市上之を本拠地とし、名門藤原氏の流れを汲む武蔵国の地侍の一つであり、のちに山内上杉氏や小田原北條氏の被官となっていたが、その第十二代当主である氏長の時代に関白秀吉の小田原仕置に巻き込まれることになる。時は天正18(1590)年、秀吉は二十二万の大軍で北條方の支城を各個撃破しながら小田原城へ向かったが、その際に上野から侵攻した越後上杉・加賀前田ら北国口勢に、石田治部・大谷刑部・長束大蔵を付けて忍城攻略を命じた。後に佐竹義宣や眞田昌幸・信繁父子らを加えた総勢二万の大軍は、忍城を包囲したものの天然の要害に攻めあぐね、石田三成は備中高松城攻めに倣って、のちに石田堤と呼ばれる全長14kmにも及ぶ堤防を築かせ、利根川や元荒川の水流を利用した水攻めを敢行した。
月別: 2016年2月
広島県広島市にある広島城は、戦国時代に本拠地とした毛利家が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の敗戦により周防・長門二カ国の改易された後は、豊臣恩顧の大名でありながら東軍で戦功のあった福島正則が安芸国と備後鞆49万8000石で入城し、毛利家の監視という役目を担いつつ、領国経営と城下町の整備を行っている。翌6(1601)年の正月には家臣総出で広島城の普請を行い、わざわざ近江国から石垣普請の専門家である穴太衆《アノウシュウ》を雇い入れた。当時の広島城の外郭部分は福島氏の時代に整備されたとする説が有力で、加えて洪水対策として太田川沿いの堤防を対岸よりも高くするなどの(護岸)工事が行われていたと記録されている。しかしながら、後にその天災が「仇」となる。元和3(1617)年の大洪水で破損した石垣を幕府に無届で改修したことが、これが武家諸法度違反に問われてしまう。参勤交代で江戸にいた正則は幕府に謝罪し、改修した部分を破却することを約束して一度は治まったが、実際には本丸部分だけ破却し、二の丸や三の丸は対象外としたことが破却不十分として再び咎められ、結局、同5(1619)年に信濃国川中島二郡の4万5000石に減封・転封となる。正則は、その後、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居した。
武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と、その娘婿である北條氏照の居城であった武蔵滝山城跡地を含む都立滝山公園は、東京都八王子市の北部を流れる多摩川と秋川との合流点に広がる加住丘陵上にある。このような天然の地形を利用した典型的な平山城は、その規模、複雑な縄張、そして現代における良好な遺構の保存度合などからみて、中世の城郭遺構としては日本有数の遺跡の一つに数えられている。ここで「大石系図」によると、大永元(1521)年に大石定重が高月城から移って滝山城を築城したのが始まりと伝えられており、永禄元(1558)年ごろには北條氏康の三男・氏照が、定重の子・定久の養子となり、永禄10(1567)年までには(大石源三郎)氏照の居城になって、城郭の拡張が行われていたと云われている。それから永禄12(1569)年10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋である古甲州道(現在の滝山街道)沿いに建つ滝山城を二万の兵で包囲した。そして、拝島大日堂の森(現在の昭島市)に陣取った甲州勢は周辺の村々を焼き払い、二千で籠城していた滝山城を丸裸にした。このとき氏照は、古甲州道の城下の宿見口《シュクミ・クチ》へ兵を繰り出して戦ったと、越後の上杉謙信に自らの書状で伝えている。しかしながら、甲州軍の猛攻は凄まじく、三の丸まで攻め込まれ落城寸前まで追い込まれたが、なんとか凌いだと云う。氏照は、この時の教訓をもとに新城の築城に着手し、天正15(1587)年頃までに新しい八王子城へ居城を移し、滝山城は廃城となった。
東京都八王子市にある八王子城は、小田原北條氏の三代目当主・氏康の三男、北條氏照が築いた山城である。天正年間(1573〜1592)に築城が開始され、天正12(1584)年から同15(1587)年の間に、それまでの居城であった武蔵滝山城から拠点を、ここ八王子城に移した。ちなみに氏照は、信濃国木曽氏一門で滝山城主であった大石定久の娘と養子縁組して、大石源三郎氏照と名乗り、のちに大石家の家督を譲られると武蔵国の国衆を束ね、その支城のネットワーク化に尽力した。氏照は大石家の家督を継ぐと同時に滝山城を居所としたが、小田原城攻略に向かう途中だった武田信玄率いる甲州軍二万に攻め込まれ、三の丸まで突き崩されて落城寸前まで追い込まれたものの、辛くも凌いだという経験から平山城での防衛に限界を感じ、山城の築城に着手したのが八王子城のはじまり。この時、氏照が構想していた城郭は壮大で、織田信長の安土城を参考にしたとも云われている。その後、豊臣秀吉による小田原仕置が始まり、天正18(1590)年に加賀前田、越後上杉、信州眞田ら北国口勢に攻められて落城した。この時、城主の氏照は本城の小田原城にて籠城していたため、八王子城防衛は城代・横地監物吉信とその家臣らの僅かな兵の他、農民や婦女子を加えた三千で籠城していたが激戦の末、一日で落城、氏照正室を始めとする婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血の色に染まったという。この落城が決め手となり、本城の小田原城も開城・降伏することになり、主戦派だった氏政と氏照は城下で切腹となった。その後、当主・氏直も配流先の九度山で亡くなり、ここに小田原北條氏は滅亡した[a]実際のところは小田原北條三代目氏康の五男で氏政の弟にあたる氏規とその子氏盛の代には、1万1000石で河内狭山藩主として大名に列している。。
参照
↑a | 実際のところは小田原北條三代目氏康の五男で氏政の弟にあたる氏規とその子氏盛の代には、1万1000石で河内狭山藩主として大名に列している。 |
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15世紀末、伊勢新九郎(のちの北條早雲)が伊豆を平定し、駿府の今川氏親の協力を得て小田原城を奪取して居城とした後は、小田原北條氏五代によって、明応4(1495)年から天正18(1590)年の約100年にわたり、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の関八州の他、伊豆・駿河に勢威を及ぼした。この時代の小田原城は現在の小田原高校近くにある丘陵上に本丸などいくつかの曲輪を配置したもので、八幡山古郭《ハチマンヤマ・コカク》と呼ばれている。そして上杉謙信や武田信玄といった名だたる戦上手が率いる軍勢をも寄せ付けることなく、難攻不落の城として、戦国時代最大と云われる規模に整備・拡張されていった。特に太閤秀吉による小田原仕置の直前に完成した、小田原城とその城下を囲う周囲約9kmにも及ぶ総構《ソウガマエ》という大規模な堀切(空堀)と土塁は、現在でも小峯御鐘ノ台大堀切や早川口遺構などで、その面影を偲ぶことができる。
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