清流肱川の畔に築かれた大洲城の天守は木造復元の複合連結式層塔型四層四階

愛媛県大洲市にある大洲城は肱川(ひじかわ)の畔にある地蔵ヶ岳と呼ばれた小さな丘を中心に築かれている。時代を遡ること元弘元(1331)年、その丘に宇都宮豊房が築いた居城が大洲城の始まりと言われており、さらに近代城郭として整備されたのは、天正13(1585)年に羽柴秀吉の四国平定後に道後湯築城を本拠とした小早川隆景の枝城になってからだと云う。これは、天正13(1585)年に入城した戸田勝隆、文禄4(1595)年に大洲城を居城とした藤堂高虎、そして慶長14(1609)年に淡路洲本から入城した脇坂安治の時代であり、慶長の時代には天守も築かれたという。そして、元和3(1617)年には米子から入城した加藤貞泰により大洲藩が藩立し、明治時代の廃藩置県まで続いた。加藤氏の時代には天災により大破した三の丸南隅櫓や苧綿櫓(おわたやぐら)、台所櫓、高欄櫓(こうらんやぐら)などが再建され、これらは昭和32(1957)年に国の重要文化財の指定を受けた現存建築物である。天守は明治時代に取り壊されたが、大洲市の市制50周年を迎えた平成16(2004)年には四層四階の天守として木造で復元された。大洲城は明治期の古写真や雛形、発掘史料が豊富であったため、往時の姿をほぼ忠実に復元できたと云う。また、一般的に建築基準法では、この規模の木造建造物は認められないが、保存建築物として適用除外の認可がおりたという。

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