城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

石垣山一夜城 − Ishigakiyama Castle

現在の小田原城天守閣から眺めた石垣山城方面の眺望(手前の低い山)

豊臣秀吉は天正13(1585)年に関白に任官し、その年と翌年で四国と九州攻めを行って西国をほぼ平定した。その次に東国に目を付けた秀吉は「関東・奥両国惣無事令(そうぶじれい)」を発布し、関東と奥両国(陸奥国と出羽国)において、「以後、大名同士の領土の取り合いがあれば、関白として征伐する」旨を通達した。そして後陽成(ごようぜい)天皇を聚楽第(じゅらくてい)に招き、全国の諸大名にも列席を命じたが、北条氏政氏直父子は列席しなかった。それから後の天正17(1589)年10月に、上野国の沼田城代を務めていた北条方の猪股邦憲(いのまた・くにのり)が、突如、利根川を挟んだ真田領の名胡桃城を占領するという事件が勃発した。以前から北条家の振る舞いに苛立ちを見せていた秀吉は、これが惣無事令に違反したとみなして言い分を聴くための猶予を与えたが、北条氏政はこれを無視した。その結果、同年12月13日に、秀吉は宣戦布告の朱印状をもって、諸大名らに陣触れを発した。一方、早くから手切れになると予想していた北条氏政は、小田原城やその他の支城に戦支度を命じており、ちょうどこの時期には小田原城を囲む総構(そうがまえ)を完成させた上に、およそ五万四千の兵に動員をかけていた。しかしながら秀吉の動員力はそれをはるかに凌駕し、およそ4倍の二十二万の軍勢を擁し、東海道から秀吉本隊が、東山道から前田・上杉・真田勢が、そして相模湾には長宗我部・九鬼らの軍勢を進軍させた。支城を各個撃破しながら進んだ秀吉は、小田原全体を見下ろせる笠懸山(かさがけやま)の山頂に本陣を置き、一計を持って城を「あたかも」一夜で築いたかのように見せかけた。これが石垣山一夜城の名前の由来である。

一昨年は2014年の秋、小田原城を攻めたあとに、その西3kmほど離れたところにある石垣山城も攻めてきた。この時はJR小田原駅前へ戻ってお昼を食べ、昼過ぎの東海道本線でJR小田原駅の隣にある早川駅で下車、そこから石垣山農道と呼ばれる道を徒歩で約40分かけて登り、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている城址を見てきた。

秀吉は築城にあたり、笠懸山の山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成すると周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城の将兵は一夜のうちに城が出現したと思ったという伝承から石垣山一夜城とか太閤一夜城などと呼ばれている。この城は、秀吉が近江から連れてきた穴太衆らによる関東で最初に造られた総石垣の城で、野面積みで造られた、長期戦に備えた本格的な城作りであった:

左下にあるのが石垣山城

小田原の役の攻防図

JR東海道本線の早川駅を降りて、R135沿いを小田原方面に戻り、早川の交差点を左折し、早川小学校入口から農道をひたすら上って行く:

この看板を目印に上っていくと途中に海蔵寺がある

石垣山農道を40〜50分程上って行く

石垣山一夜城歴史公園までは40〜50分ほどの坂道(豊臣秀吉にちなんで「出世坂」と呼ぶらしい)を上っていくが、麓には海蔵寺があり、ところどころに小田原の役で石垣山城に参陣した代表的な武将らの説明板(合計7枚)が立っていた:

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

堀秀政

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

伊達政宗

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

宇喜多秀家

 

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

徳川家康

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

千利休

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

淀殿

石垣山に参陣した武将シリーズ(全7枚)

豊臣秀吉

こちらは坂の途中から眺めた小田原の中央卸売場や西湘バイパス方面の眺め:

手前の道路が石垣山農道

相模灘(現在の相模湾)と西湘バイパス

手前に見えている道路が石垣山農道

相模灘(現在の相模湾)と小田原市の中央卸売場

さらに坂の途中には地元の園芸組合の協力で、野面積みの石垣見本が展示されていた:

石垣山城は関東で初めての総石垣造りだった

野面積みの見本

農道とはいえ舗装された道路をえんえん上っていくことになるので、どうせなら時間を気にせずにゆっくりと休みながら、相模湾などの見晴らしの良い景色を楽しみつつ上ることをおすすめする。これは車で一気に移動してしまうにはもったいない景色。ちなみに、ここ石垣山一夜城歴史公園には駐車場の他に有名スイーツ店などが併設されているので、意外と上って行く車や人は多かった。そして、これが公園の石碑:

史跡と道路を挟んで駐車場などの施設がある

石垣山一夜城歴史公園の石碑

入口に立っていた歴史公園の案内図に書かれている石垣山城の縄張図:

一夜城と言われているが、天守や石垣を持つ本格的な城だった

垣山一夜城歴史公園案内図

これを見ると石垣山城は「一夜城」と云われているが、本丸には天守台があり、二の丸・三の丸の他に西と南と東にそれぞれ曲輪が付けられ、総石垣の本格的な城だったことが伺える。

これは史跡側の入口近くに展示されていた早川石丁場群の刻印石。石垣山の農道建設の際の発掘調査で発見された石材で、石材の前面には「ハ」の刻印が、右側の石材には「寸」の刻印があることから、穴太衆ら石工(いしく)の集団らが刻んだマークと云われている:

一つの石に矢穴を一列に彫った跡、矢(くさび)を入れて二つに割った

早川石丁場群の刻印石

そして、これが石垣山城跡の入口:

国指定史跡の石垣山(一夜城)の入口の説明板

石垣山城の当時の登城道

登城道からではなく城址と施設を隔てている車道に沿って奥へ進むと、南曲輪下の斜面にある石垣が見えてくる。ちなみに、この車道は巨大な堀切跡であり、往時は左側に出丸があった(現在は私有地のため立入禁止):

穴太衆の手による野面積みの石垣が残っている

南曲輪の南側斜面にある石垣

穴太衆の手による野面積みの石垣が残っている

南曲輪の東側斜面にある石垣

関東大震災で崩落した石垣:

大正時代の関東大震災でほとんどが崩落した

崩落してしまった南曲輪下の一部の石垣

これらの石垣は江戸時代には小田原藩によって管理されていたそうで、大正時代の関東大震災まではしっかりと残っていたようだ。ここで再び登城道まで戻って、大手門跡をを通って南曲輪方面へ移動した。崩れた石垣が生々しく残っていた:

この先は南曲輪・西曲輪方面

大手門跡と大手道

大手道を進むと南曲輪の門の基台跡があった。あとマムシ注意の看板も:

残念ながら大正の関東大震災で崩落していた

南曲輪の門の基台跡

この時は9月だったので、あまり心配しなかったが

マムシ注意の看板

そして、これが南曲輪跡:

ここにも櫓門や櫓が建っていた可能性あり

南曲輪跡

さらに奥へと進んで西曲輪跡へ:

この右上が天守台

西曲輪跡

この左上が天守台

奥から振り返って見た西曲輪跡

西曲輪から見た天守台下の石垣:

こちらも地震で崩落していた

西曲輪跡と天守台下の石垣

この上が天守台・本丸跡

天守台東側の石垣

ここから再び南曲輪跡まで戻ってから本丸(本城曲輪)跡へ進んだ。これらは本丸(本城曲輪)跡ら見たその腰曲輪跡など:

左へ行くと二の丸跡、右へ行くと南曲輪

本丸(本城曲輪)跡から見下ろした本丸の腰曲輪跡

左へ行くと二の丸跡、右へ行くと南曲輪跡

本丸(本城曲輪)跡から見下ろした本丸の腰曲輪跡

左へ行くと二の丸跡、右へ行くと西曲輪跡

本丸(本城曲輪)跡から見下ろした南曲輪跡

本丸(本城曲輪)跡:

本丸・二の丸・三の丸は梯郭式に並んでいる

本丸(本城曲輪)跡の碑

面積は7,500㎡と、意外と広い本丸跡

本丸(本城曲輪)跡

秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者や猿楽師らを呼び寄せた上に、淀君ら側室も呼び、参陣している諸大名らもこれに倣うように勧めたという。この城は、単に小田原城攻めの本陣であるというだけではなく、関白秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な備えを持っていたと言える。

そして本丸の南隅は天守台がある:

標高は261.1mということで、石垣山城の中で一番高い場所にある

本丸(本城曲輪)の南側にある天守台跡

かっては五層の天守が建てられていたと云うが。。。

天守台から眺めた本丸(本城曲輪)跡

天守台跡に残る巨石:

ほぼ全てが崩落していて、元の状態を保っていなかった

天守台の石垣

この天守台の標高は261.5mあり、小田原城の本丸よりも227m高い。また、小田原城までの距離はわずか3kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、特には三浦半島や房総半島をも望むことが可能であった。
そして往時は、ここに五層の天守が建てられいたと云うが、大分崩れてしまっているため、残念ながら現在の敷地の規模からして巨大な建築物が建っていたとは想像できない。

この城が一夜城と呼ばれてはいるが、実際には約4万人が動員されて、天正18(1590)年の4月初めから6月末までの八十日間が費やされた。南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸(本城曲輪)と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出丸が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪などが配置されている。この他、本丸の東には南曲輪や腰曲輪などの小規模な曲輪群が設けられている。城内に入ると、通路には枡形と呼ばれる屈曲した構造を持つ門がいくつかあり、門は本瓦葺で豪壮なその構えが秀吉の威信を示していた。

本丸東隅には物見台が再現されており、ここからは小田原城下を眺めることができるが、季節柄、木々が生い茂ってあまり見晴らしはよろしくなかった。目視で小田原城を確認するのも、ちょっと一苦労だった:

目視で小田原城を探すのはなかなか難しい

物見台からの眺望

(カメラのズームでなんとか見つかった次第)

物見台から眺めた小田原城天守閣

本丸と二の丸・三の丸は梯郭式に並んでおり、こちらは本丸から見下ろした二の丸(馬屋曲輪)跡:

現在は芝生公園として開放されている

本丸(本城曲輪)跡から見下ろした二の丸(馬屋曲輪)跡

そして本丸から二の丸へ下りて行くと、こちらも崩落した石垣が残っていた:

こちらの石垣も崩落していた

本丸(本城曲輪)北側の石垣

こちらの石垣も崩落していた

本丸(本城曲輪)北側の石垣と本丸登口

こちらは二の丸跡からみた本丸切岸と崩落した石垣:

本丸北側の崩落してしまった石垣

本丸(本城曲輪)の石垣跡

本丸北側の崩落してしまった石垣

本丸(本城曲輪)の石垣跡

そして二の丸(馬屋曲輪)跡。

本丸(本城曲輪)跡と並んで最も広い曲輪

二の丸(馬屋曲輪)跡

本丸(本城曲輪)跡と並んで最も広い曲輪

二の丸跡から眺めた本丸跡

ここ二の丸(馬屋曲輪)跡は、本丸(本城曲輪)跡と並んで最も広い曲輪であり、中心部分と北へ長方形に張出した部分、そして東の腰曲輪部分の三つの部分から成っている。伝承によると、ここには馬屋が置かれ、本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧水があった。

二の丸跡の北側には三の丸跡と井戸曲輪跡があり、井戸曲輪へ行く途中には櫓台跡が残っていた:

この奥が井戸曲輪跡

櫓台跡

この下が井戸曲輪跡

櫓台跡の碑

二の丸跡の北東側にあるのが井戸曲輪跡:

北側と東側を石垣の壁で囲むようにして造られた

二の丸の北東にある井戸曲輪跡

今回は、この先には進むことができなかった

井戸曲輪跡

現在でも水が湧き出ている

「淀君化粧井戸」または「ざゑの井戸」と呼ばれる井戸

周囲は野面積みの石垣:

これらの石垣は、石垣山城の中でも特に当時の姿を留めている

井戸を囲むようにして。。。

これらの石垣は、石垣山城の中でも特に当時の姿を留めている

築かれた。。。

これらの石垣は、石垣山城の中でも特に当時の姿を留めている

野面積みの石垣

井戸曲輪は、もともと沢のようになっていた地形を利用して、北側と東側を石垣の壁で囲むようにして造られており、ここにある井戸は二の丸から25mも下がった所にあり、今でも湧き出る水を見ることができる。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」と呼ばれている。

二の丸跡へ戻り、その北側には三の丸があったが、現在はみかん畑になって途中までしか行けず、先端には展望台があったので、そこからの眺望(左側が箱根方面、右側が小田原方面):

現在は私有地(みかん畑)になっていて立入禁止

往時は、この先に三の丸と北の丸があった

遠くに見えるのは二子山、駒ヶ岳、神山、早雲山の山々

展望台からの眺望1

塔ノ峰の真中辺りには小田原城の城主だった稲葉一族の墓所がある

展望台からの眺望2

明神ヶ岳から丹沢山方面

展望台からの眺望3

戻りは二の丸下の石垣に沿って登城口へ移動した:

本丸と二の丸の下を通るルート

もうひとつの登城道(往時は存在していないルート)

往時にはなかったルート

もうひとつの登城道(往時は存在していないルート)

登城道脇に残る石垣は一部が崩落していた:

この登城道も往時は石垣だった可能性が高い

登城道沿いの崩れた石垣

(長い年月の経過が時代の移り変わりを示してくれる)

石垣の上から出てきた巨木

石垣山城の石垣は、小田原城と同様に大正時代の関東大震災でほぼ壊滅的な状態になってしまったが、そもそも、この地震の震源地は小田原だったのでやむを得ない。ちょうどこの辺りの地盤は富士山も近く、フィリピン海プレートと北米プレートの境目も近いようで、小田原城はたびたびの地震で被害を受けていたし。
城攻めが終わった後は、道路を挟んで向こうにある「平成の一夜城」にて一休み。家族連れで大賑わいだった。

堀秀政の墓所

それから登って来た時と同じように石垣山農道を下り、麓にある海蔵寺へ。
ここ海蔵寺には、織田信長の側近の一人で、小田原城対陣中に疫病にかかり陣没した堀久太郎秀政の供養塔がある。天文22(1553)年に美濃に生まれ、11歳で信長に仕え、天正9(1581)年、齢29歳で長浜城主となった。奉行職以外にも合戦で部隊を率いることができる文武両道の士。なんでもこなせるので、通称「名人久太郎」。信長が横死した後は、秀吉麾下になり、賤ヶ岳の戦の折の左禰山城築城は有名。その後、越前国の北の庄に移封されて十八万石の大名になる。公の墓碑は、小田原城や相模灘も見渡せるこの地に建ち、殉死した家臣・大野左京らの墓に囲まれて、ひっそりと眠っていた:

ここ小田原の地で38歳という若さで陣没した

小田原城対陣中に陣没した堀久太郎秀政公の墓所

殉死したと思われる家臣大野左京らの墓に囲まれて小田原城を見渡していた

堀秀政公の墓

 

殉死したと思われる家臣大野左京らの墓に囲まれて小田原城を見渡していた

堀秀政公と殉死した家臣らの墓

See Also石垣山一夜城攻め (フォト集)
See Also後北条時代の小田原城と総構 (攻城記)

 

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    小田原駅から一駅隣の早川駅で降りて地図に従い、30〜40分ほどデコポン畑と「石垣山に参陣した武将たち」の立札を横目に、もくもくと登って行くと駐車場完備で大層綺麗に整備された公園に到着する。ここから更に二の丸や本丸へ登っていくと関白秀吉になったかのように小田原市内を眺めることができる。
    そういえば2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも登場していたなぁ。

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