長野県小諸市にある小諸城は、平安時代末期に平家物語や源平盛衰記に登場する源氏・木曽義仲の配下の小室太郎光兼が館を構えたのが始まりで、のちに土豪・大井氏が小室氏の勢力を抑えて、その付近に鍋蓋城と支城を築いた。戦国時代になると、甲斐の武田信玄により鍋蓋城は落城し、その跡地に山本勘介と馬場信房に縄張させ築城したのが小諸城(別名:酔月城)である。武田氏が滅亡して織田信長の家臣・滝川一益が関東管領として信濃を支配するも、信長が横死した後は、相模北条、三河徳川、信州真田、越後上杉らの争奪戦が勃発、そして豊臣秀吉による小田原の役を経て、仙石権兵衛秀久が小諸五万石の大名として入国した。秀久は本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を建てたと云う。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では中山道を進んだ徳川秀忠ら徳川軍の主力が入城し、西にある上田城の真田氏を牽制するも、真田昌幸の計略に翻弄され敗退、天下分け目の戦に遅参するという失態をおかした。その後、引き続き江戸時代初期も仙石秀久・忠政父子の二代が小諸を治め、大手門や石垣などの城郭と城下町・街道の整備を行った。それから仙石氏が上田藩へ移封されるまでの32年の間に、現在の小諸の街の原型が築かれたと云う。その後は徳川氏、松平氏、牧野氏らが藩主を勤め、明治時代の廃藩置県で役割を終えた小諸城本丸では「懐古神社」を祀り、三の門より城内は「懐古園」として市民に開放された。
一昨年は2014年の初秋に小諸城を攻めて、美味しい信州蕎麦を食べてきた。行き帰りともに人生で初めて乗ったJR東日本の長野新幹線あさま(当時)で東京と軽井沢間を移動し、軽井沢と小諸間はこれまた人生で初めて乗った「しな鉄」ことしなの鉄道で移動した。東京と軽井沢間は1時間程度、軽井沢と小諸間は20分程度で、首都圏からでも気軽に行けるところが素晴らしい。途中、浅間連山や金色の稲穂が垂れ下がった水田があちこちに広がる風景が素朴でありながら、その美しさに思わず見入ってしまったくらい。長野新幹線(当時)としな鉄には、この他の城攻めでも利用することになるので感慨深い (今は北陸新幹線だけど)。
8:45amに自宅最寄り駅を出発して、9:52am東京発のあさま515号に乗って軽井沢には11:00am前に到着。そこからしな鉄に乗りついで小諸に着いたのが11:30am。まずは駅を下りて、停車場ガーデンと呼ばれるパブリックスペースの向こうにある小諸市観光協会に行き、近場でオススメの信州蕎麦屋を教えてもらう。そのお店が小諸城の大手門にあたる大手門公園の先にあるということで、腹ごなしをする前に大手門を攻めてみた。
慶長17(1612)年に仙石秀久が築いた実践的な城門で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は東日本を代表する大手門建築の一つで、平成5(1993)年に重要文化財に指定された。左右には石垣があり、その間に櫓を載せた門を別個に建造した(すなわち、門と石垣が一体化していない)珍しい造り。当時は瓦葺の屋根が珍しかったこともあり別名は瓦門とも。この門を建てるために大工を江戸から呼び、瓦は三河国(現在の愛知県)から運んだと云う。
二層入母屋造の楼門で、一階は敵の侵入を防ぐ強固な造りになっているのに対し、二階は居館形式になっている。平成16(2004)年から四年をかけて大修理され、仙石秀久創建当時の姿で甦った。
大手門の碑と、大手門を支える石垣。小諸城の大手門は石垣と一体化していない珍しい造りになっていた:
それから大手門を越えた所にある、観光協会で勧められた蕎麦屋で腹ごなしをする。ちなみに、このお店近くには小諸藩主だった仙石「権兵衛」秀久の名前が付いた坂があった。この仙石権兵衛は軍監として派遣された羽柴秀吉の九州仕置で島津軍に大敗し、長曽我部元親の嫡男・信親や十河存保らが討ち死にした上に、自分だけ逃げ帰ったことで改易となり、一時は高野山で隠遁していたが、小田原城攻めで活躍をしたことから帰参が許された秀吉麾下の珍しい武将である:
そして、ここから北国街道に出て、本町から小諸城址である懐古園まで移動したのだけど、その途中にも歴史的な建築物が残っていた。まずは小諸城の前身である鍋蓋城跡。この鍋蓋城は、戦国時代の初めの文明10(1487)年に、大井伊賀守光忠により小諸の町に初めて造られた城である。そして江戸時代に、この場所は小諸藩の城代家老の屋敷として使われるようになった:
そして旧小諸本陣などの遺構が続く。これらは江戸時代に旧脇本陣として建てられた「粂屋(くめや)」。北国街道を通った大名行列が小諸宿(こもろしゅく)に宿泊する際、お殿様は本陣に泊まり、家老などの上級の家臣がこの脇本陣に泊まった:
そして、こちらが重要文化財の旧小諸本陣兼問屋上田家の建物で、明治の中葉・田村家の所有となったもの。建設年代は18世紀後半から19世紀初頭と推定される。この二階建は問屋場で、北国街道に面し、正面に大きな切妻屋根を見せ、二階は腕木で持ち出し格子窓を広く取る。当初、一階正面は全面開放の縁側で、内部には部屋が二列に並び、その前面に畳廊下を通した間取りになっていた:
北国街道を南進して「しな鉄」の線路を渡らず駅方面に移動すると、現在は小諸市に寄贈され小諸市立歴史資料館になっている小諸宿本陣主屋がある。これは参勤交代で大名などが休泊した木造切妻造桟瓦葺平屋建ての豪華な建物で、旧部材を可能なかぎり使用し、間取り、寸法なども当時に忠実に移築再現されたもの。当時は旧小諸本陣の隣に建てられていたものらしい:
ここから小諸駅隣の高架を渡って、今回の目的地である小諸城址へ。現在は「懐古園」として、小諸城址に残る三の門(重要文化財)や苔むした野面積みの石垣、樹齢500年とも云われる欅(けやき)の大樹の中、四季折々の風情が楽しめる公園として開放されている。往時の小諸城は、浅間山の広大な裾野が千曲川に至り、河川段丘を形成している部分に築かれ、その両脇は天然の堀切になっていたという。武田家家臣の山本勘介によって、城下町より低い位置にある「穴城」としては日本唯一の城跡である。城の搦手にある千曲川の断崖と、浅間山麓の田切地形(火山灰土がえぐれた地形)を利用した縄張になっている。
現在の小諸駅付近が三の丸で、線路を挟んだ懐古園の入口には重要文化財の三の門が建っている:
この三の門も大手門と同様に、慶長時代に城主・仙石氏によって一連の造営の中で創建された。しかし寛保2(1742)年に小諸城下を襲った大洪水により流出し、約二十年後に再建されて、現在に至る。寄棟造(よせむねづくり)・桟瓦葺(さんかわらぶき)の櫓門で、一階は北脇に潜戸を構え、二階は両側に袖塀を設け、矢狭間と鉄砲狭間が城郭の面影を残し、内部は住宅風の一室になっている。
三の門をくぐって料金所(当時は動物園の入園料も込みの散策券で大人300円)を過ぎると、その右側には二の丸石垣が続いていた。ちなみに、この石垣は廃城後に北国街道の縁石として流用されてしまったが、石垣を懐かしむ声が多数寄せられたそうで、当時よりも大きな石を用いて復元されたものだとか:
こちらは二の丸石垣にある水櫓跡。水車を使って川の水を汲み上げ、城内の各所に給水していたところ:
その先には二の丸下の枡形門跡:
この枡形を直角に曲がった右側に二の丸跡へ続く石段がある:
そしてこれが二の丸跡。徳川秀忠が西軍についた上田城の真田父子に阻まれて二十数日逗留することになったため、関ヶ原の合戦に遅参するという失態をおかした:
こちらは二の丸跡から見た大手道。この先は黒門橋で堀切を渡って本丸跡へ続く:
その前に、二の門跡を過ぎた大手道沿いには番屋跡と中仕切り門跡(なかしきりもんあと)がある。番屋跡は鉄砲や弓が立てかけられていた建物があったところ:
さらに進むと本丸に向かって大手道を挟んで右手に北丸跡、左手に南丸跡がある。こちらは北丸跡。現在は射院という弓道の演舞場になっていた:
大手道を挟んで、その対面にあるのが南丸跡。高さ約3mの石垣で一段高くなっている曲輪。武器庫などがあったらしい。織豊時代に特徴的な野面石積みであるが、ほぼ垂直に築かれ、敵を寄せ付けない気迫を感じさせる。その石垣の中には鶯石(うぐいすいし)と呼ばれる石が埋め込まれている。本当かどうかはわからないが、城主の通行や祝い事の度に「うぐいす」の鳴き声をたてたと云う:
さらに本丸方面へ移動すると、本丸と北丸・南丸を隔てる紅葉谷と呼ばれる空堀があり、その上に黒門橋という木橋が架かっている:
この橋を渡ると直ぐ右手に黒門跡があり、礎石を思われる石垣が残るのみ。小諸城の一の門である、黒門そのものは正眼院と呼ばれる近くの寺に山門として移築されたとか:
黒門跡を過ぎると、正面に本丸石垣が建ち、登城道が左右に分かれるようになっている。左へ行くと本丸内部(懐古神社)へ、右へ行くと本丸石垣と天守台、馬場へと続く:
ひとまず本丸石垣をくるりと観察した。先ずは右側の石垣:
そして、こちらは分岐点から左へ進み、左へ回りこんで見た本丸石垣。苔むした野面積みの石垣が素晴らしい:
そして本丸跡へ:
この本丸跡には「懐古神社」を祀った社がある:
これは本丸内にある鏡石で、武田信玄の家臣である山本勘助晴幸が常に愛用したと伝えられており、地球外から落ちてきた隕石ではないかとも云われている:
本丸跡には懐古神社とその社務所の他に、売店や旅館が立っていた。そして本丸跡を探索した後は、本丸西北隅にある天守台跡へ、旅館脇にある石段から上った:
天守台は本丸石垣よりも一段ほど高くなっている:
そして天守台の上にある天守閣跡。往時は三層の天守閣が建っていたが、寛永3(1626)年に落雷で焼失して以来、幕府の政策により再建されることはなかった:
本丸石垣は、大きく張出した天守台から南方面に長く伸びていた:
本丸石垣を下りて馬場へ向かう:
これが本丸石垣から大きく張出した天守台の石垣:
そして馬場跡。 往復するだけの鉄砲馬場といわれ、桜の名所らしい:
これは紅葉ケ丘にある荒神井戸という寛保の大洪水後に掘られた城中唯一の井戸と、武器庫(復元):
次は城の南方面で、往時は千曲川と断崖絶壁に面していた水の手の水の手不開御門(みずのてあかずのごもん)跡。小諸城の搦手にあり、左右の石垣の間には間口九尺(2.7m)の門が建っていた。門の上は通路になっていて、その端には見張用の曲輪があった:
そして、現在の水の手からの眺望。ずっと向こうに千曲川が見える。往時はこの下が断崖絶壁だった:
城の西側に掘られた地獄谷に架かる酔月橋からみた水の手展望台:
こちらは、水の手から、さらに東へ移動した西谷付近にある富士見展望台から眺望:
それから白鶴橋なる鉄橋を渡って、南谷を越えた辺りにある動物園を観覧し、懐古園の入場口に戻った。動物園が建っている場所は往時の籾蔵台と思われる。入場口手前には、城の東側に横たわる巨大な空堀の木谷へ入る入口があった。何か資材置き場っぽいようで立ち入りは禁止されていた:
織豊時代の野面積みの石垣が残り、苔むした状態が時の流れを感じさせてくれた、なかなか趣き深い城だった。
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