愛媛県宇和島市は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた、日本屈指のリアス式海岸地帯にある。その市街地のほぼ中央にあるのが宇和島城である。その歴史は、慶長元(1596)年から六年の歳月をかけて、関白秀吉から伊予国7万石を拝領した藤堂高虎がそれまで中世山城だった板島丸串城を近世城郭に改修し、大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張にしたところから始まる。その際に、高虎は三層三階の望楼型天守を建てた。そして慶長19(1614)年には伊達政宗の長子である秀宗が徳川秀忠から伊予国10万石を拝領し入国、石垣や天守、矢倉などが修築された。さらに時がながれ、徳川の治世になった寛文6(1666)年、二代目の伊達宗利の頃に天守が修築されて現在の三層三階の層塔型になった。この頃には「城が軍事拠点である」という重要性が薄れた時代であったため、それまで付いていた狭間や石落としが無くなり、代わりに千鳥破風や唐破風など装飾性の高いものが取り付けられた。その後、明治維新で天守・追手門を除く全ての建築物が解体、太平洋戦争では追手門が焼失した。現在は堀がすべて埋められ、三の丸をはじめ総曲輪部分約28万平方メートルは失われているが、本丸、二の丸などの曲輪約10万平方メートルの城山は国史跡に、そして現存12天守の一つに数えられる天守は国重要文化財に指定され、搦手口にある上り立ち門は慶長期の建築物の可能性が高いとして市指定文化財になっている。
一昨年は平成26(2014)年の夏の終り、ちょうど広島出張を終える最後の週末に四国へ渡り大洲城と、ここ宇和島城を攻めてきた。前日に宇和島市で一泊して、この日は午前中に城を攻めて、午後に帰広する予定にしていた。駅前にある宿泊先から宇和島城(城山)東側の登城口へは徒歩で10分程。その途中でR56(宿毛街道)越しに現存天守が見えてきた:
宇和島城下古絵図によると宇和島城の北半分は海に面し、南半分は海から引いた水堀で、まさに海城であったようだ:
城山には登城口が東北側と南側の二つあり、今回は東北側の登城口から攻めて、本丸攻略後に南側の登城口へ移動するコースにした。
まず東北側の登城口にある桑折氏武家長屋門。宇和島藩の家老・桑折《コオリ》氏の屋敷敷地に残されていたもので、昭和の復興事業に伴う道路拡張により撤去せざるを得なくなったが、所有者の桑折氏の好意でここに移築したと云う:
しかしながら、移築先のこの場所が狭く、そのままでは建てられないため、門番等の居住空間であった左室を撤去し、往時は35mと立派な間口であったものが移転後は15mほどになってしまった。
城山北東側の登城口。桑折氏長屋門から入ると石垣と石段があるので、それを登って井戸丸へ向かう:
井戸丸方面へ石段を上って行くと、みごとな井戸丸門跡の石垣に遭遇する:
そして、ここが井戸丸。ここにある井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、最も重要な場所として井戸丸と呼び、往時は井戸丸御門、井戸丸矢倉などが建ち、有事のために厳重に管理していたと云う。井戸の直径は約2.4m、周囲は約8.5m、深さは約2.4m:
井戸丸からさらに大手登城道を上って行くと二又に差し掛かる:
まずは右に曲がって藤兵衛丸と、さらに先にある長門丸へ。藤兵衛丸は城番の屋敷や矢倉があったところで、現在は山里倉庫が建ち、城山郷土資料館(入場無料)になっていた。この倉庫には伊達宇和島藩に関する貴重な史料や郷土品が展示されていた:
この倉庫は弘化2(1845)年に三の丸に建てられた武器庫(現在の宇和島郵便局周辺)で、昭和に入って伊達家から譲られて城内に移築された。この藤兵衛丸の周囲は見事な石垣で囲まれており、長門丸へ降りていくとその素晴らしさがわかる。そして、ここから長門丸方面へ降りて行く途中には雷門跡がある:
雷門跡は藤兵衛丸跡の南西にあり、藤兵衛丸、二の丸・本丸へ進むために避けては通れない門であるが、この頭上には二の丸の御算用矢倉があり、敵勢は正面と上からの攻撃にさらされるようになっている。そして、さらに長門丸方向へは石段が続いていた:
これが長門丸付近から見上げた藤兵衛丸の石垣:
ここが長門丸:
これは長門丸の北角矢倉跡:
これは長門丸の西角矢倉跡:
現在の長門丸には城山管理事務所とトイレ、そして配水池があり、その池のそばには右矢倉と長門丸門跡の石垣が残っている:
ここから再び藤兵衛丸の先の二又まで戻って二の丸・本丸方面へ移動する。雷門跡を過ぎた所に、こんな階段が備え付けられていた:
どうやら、これは宇和島城保存整備工事中に使用されていたもので、工事中は今から通る登城道が通行止めだったらしく、ここから二の丸へショートカットできるようにしたようだ。この時は問題なく進めたので、この階段は立ち入り禁止になっていた。
ということで、二の丸・本丸に向かって登城道を上って行くと三之門跡に入る:
ここには二の丸と連続している帯曲輪があり、そこには御書物矢倉跡がある:
これは本丸から見た三之門から二の丸への登城道:
そして二の丸の手前にある二之門跡:
これが二の丸跡。天守が建つ本丸の最終防衛施設として、その目前に置かれ、眼下の雷門辺りに侵攻した敵を攻撃するために築かれた曲輪で、この下にある帯曲輪と連結している。二の丸の橋には御算用矢倉が建っていた:
そして、二の丸から本丸に建つ天守を振り返って見たところ:
これは二の丸から本丸との間にある一之門跡:
この一之門の両側にはそれぞれ北角矢倉と櫛形矢倉が建っていた:
本丸の櫛形矢倉から城下の眺め:
本丸の中に進んでいくと、天守の周辺には鉄砲矢倉跡や御大所(御台所)跡、御弓矢倉跡がある:
そして、本丸に建つ現存天守(重要文化財)。藤堂高虎が創建したとされる三層三階の望楼型天守を、宇和島伊達家二代目宗利が同じく三層三階で総塗籠式《ソウヌリゴメ・シキ》の層塔型で再建したものが現在あるもの:
この時代を象徴してか、狭間や石落としといった軍事性のある武器は取り払われ、千鳥破風や唐破風、懸魚《ゲギョ》といった装飾性の高いものが取り付けられている。天守の規模は小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りになっている。
重要文化財ながらも天守の内部も公開さている[a]入場料は大人200円(当時)。。これは入口の懸魚。宇和島伊達氏の家紋である竪三引両紋。その上には伊達家紋としては有名な竹二雀紋が。伊達家の家紋はけっこう多い:
天守最上階からの眺望も素晴らしかった。
このあとは本丸を降りて、みたび藤兵衛丸へ移動し、雷門跡から降って代右衛門丸へ移動した:
残念ながら、代右衛門丸はほとんどが調査用にブルーシートで覆われていて、観察することができなかった。さらに、その下の硝煙矢倉跡へ向かうも、こちらは木々が鬱蒼とし、道が無くなっていたので進むことが出来ず。
再び来た道を戻り、長門丸門跡から搦手口へ向かう登城道を使って下ることにした。
これは搦手口に向かう途中にある式部丸とその石垣:
そして搦手道はこんな感じ。この先には上り立ち門がある:
これが城山南側の搦手口に建つ上り立ち門。武家の正門とされる薬医門形式:
創建年が慶長期(藤堂高虎の時代)まで遡る可能性を持っているという。追手門、搦手門が失われている今日において、大切な遺構の一つになっている。
宇和島城攻め (フォト集)
参照
↑a | 入場料は大人200円(当時)。 |
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