和歌山県和歌山市にある和歌山城は、天正13(1585)年に羽柴秀吉が紀州を平定したのちに、異父兄弟の秀長に命じて虎伏山(とらふすやま)の峰に築城させたものがはじまりだとか。この時、藤堂高虎らが普請奉行を務め、彼が手がけた最初の本格的な近世城郭となった。この時、大納言秀長は大和郡山城を居城としていたため、城代として桑山重晴が入城した。その後、秀長のお家が断絶すると、桑山重晴が城主となった。彼の時代に山嶺部分や大手口として岡口が整備された。それから慶長5(1600)年の関ヶ原の戦ののちに、浅野幸長(あさのよしなが)が37万6千石で領主となり、城の大規模な増築を進めた。この時に連立式天守閣が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷が造営された。さらに大手門を岡口門から一の橋の門に変えて、本町通りを大手筋として城下町が整備された。元和5(1619)年には、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が藩立する。頼宣の時代に、二の丸を拡張し南の丸と砂の丸が内郭に取り込まれて、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は「南海の鎮(しずめ)」として、西日本を監視する中心的な存在となり、のちに八代将軍吉宗や十四代将軍家茂を輩出した。明治4(1871)年の廃藩置県により、陸軍の管轄下に置かれ、明治34(1901)年に和歌山公園として開放された。豊臣期、浅野期、徳川期の3期に渡ってそれぞれ築かれた石垣は、石の種類や工法(野面積み→打込接→切込接)が異なっており、それが見所の一つとなっている。
一昨年は2014年のお盆休みを利用して、出張先の別宅から近畿地方にある城をいくつか攻めてきた。初日は大坂城で、その翌日の午前中が岸和田城、そして午後はここ和歌山城を攻めてきた。午前中は雨なのか晴れなのかスッキリしない天気だったが、午後に南海電鉄の和歌山市駅に着いた頃は晴天になっていた。梯郭式平山城ということで、気楽に行こうと考えていたら後半にバテバテになってしまい御橋廊下の中など見ることが出来なかったぁ、残念。
今回は和歌山市駅の近くで和歌山のB級グルメを食べて、R24沿いを15分ほど歩き和歌山城の西外堀から攻めてみた。R24沿いの歩道橋の上から眺めた西外堀と和歌山城:
西外堀を横目にそのまま南下し、R24沿い高石垣を堪能した。これらの石垣は徳川期に拡張された際に一緒に築かれたもので、R24のほぼ中央付近まで石垣が張り出していたが、明治時代に路面電車を通すために一部の石垣が取り除かれたという:
そして同じくR24沿いにある追廻門は和歌山城の搦手に位置する。この門は藩主が坐る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと云う。太平洋戦争の空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構である:
それからゲートボール場と化していた砂の丸跡へ移動した。これは石垣に設けられた合阪で、当時は土を固めた坂だったとか:
内郭に入って、先ずは鶴の渓(つるのたに)とその付近の石垣。こちらは隅の石垣部分が長辺短辺で交互に積み重ねられた算木積みになっていた:
さらに二の丸方面の山吹渓へ続く参道の石垣の隅は長辺短辺が交互に積み重ねられた算木積み、内部は野面積となっていた:
それから南の丸跡の方面へ再び南下し、新裏坂から天守閣へ移動した。新裏坂登り口付近の石垣:
こちらは裏坂沿いの石垣。天守閣に近づくにつれて高石垣さが目立ってきた:
当時は台風の被害を被っていたようで、天守閣へ上る際にこんな立て札をよく見かけた:
ここから天守閣。小ぶりながら建築物を多聞櫓で連結した連立式は、やはり見栄えがいいもの。ただ、外国人観光客の相手をしてしまって、すっかり全景を撮るを忘れていた 、残念。
天守閣は、浅野家が虎伏山にあるいくつかの峰のうち西の峰に築いたものを、黒板梁だがほぼ現存時と同様に外観を復元した。三層三階の大天守から時計周りに多聞→天守二の門(楠門)→二の門櫓→多聞→乾櫓→多聞→御台所→小天守へと続く連立式。寛政10(1798)年十代藩主徳川治宝(とくがわ・はるとみ)により白壁の白亜の天守になるが、弘化3(1846)年の落雷で焼失。御三家という立場で特別に認可を受けて、嘉永3(1850)年にほぼ元のまま再建される。昭和10(1935)年に国宝に指定されるも、同20(1945)年の和歌山大空襲で焼失した。その後、昭和33(1958)年に復元された。
天守二の門。楠木でできているので、別名は楠門:
天守閣内に建つ乾櫓:
天守閣内に建つ二の門櫓:
大天守の各層の屋根には唐破風、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄を巡らし、隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
この辺りでバテててきたため、小天守そのものを撮ることなく、多聞櫓を含む天守閣の内部を観覧して、そのまま出てきてしまった。。。。そういうことで、天守閣にお別れを告げて本丸跡へ向かう:
一の門跡付近には本丸跡へ上る石段があったので登ってみる:
関ヶ原の戦後に入城した浅野幸長が行った大規模な修築で、虎伏山の東側にある低い峰を二の丸とし、そこに御殿を建てた。さらに徳川頼宣の時代になると、ここが本丸となり、本丸御殿と呼ばれるようになるが、地形的に不便で手狭のため、たまに謁見の場として利用される位で、この御殿はほとんど空屋敷同然だったと云う。
そして本丸御殿跡の石段から眺めた天守閣:
本丸前の天守一ノ門跡の石垣:
一の門跡を抜けた所には「七福の庭」なるオブジェがあった:
七個の巨石を、縁起の良い七福神に見立てて配置した庭で、虎伏山の西峰にあった本丸の中庭から移築した。この庭は、紀州徳川家初代頼宣の時代に作った庭で、肥後藩主加藤清正好みと伝えられている(彼の正室である八十姫の父は加藤清正であることから)らしいが、真偽のほどは不明。
それから高石垣沿いの表坂を降りて城の東へ移動した:
そして城の南側にある岡口門へ行く途中には、岡口門跡と喰違い虎口がある:
切込接ぎ(きりこみはぎ)と扇勾配による圧倒的な石垣となっている。これは徳川頼宣時代のもの。そして、これが岡口門:
大納言秀長が築城し、桑山重晴が城代だった時は、和歌山城南東部のこの門を大手門としていた。広瀬通り丁が大手筋で、熊野街道につながっていた。和歌山城の東側の地域は、その頃、雑賀庄(さいかのしょう)の岡と呼ばれていたところから、その名が付いた。そして関ヶ原の戦後に城主となった浅野幸長は、一の橋の門を大手門としたものの、引き続き重要な門として残った。徳川頼宣が入国して拡張が行われた時に、現在の姿の門に整備されたと考えられている。
そして再び城内へ入り、大手口である一の橋の門まで北上した。これらは、その間にあった一中門跡と大手道:
こちらは現在の城内で一番大きな堀である東堀:
大手道の脇で建つ一の橋の樟樹(くすのき)。幹の周囲は約7m、樹高は約25mで巨大な樹冠を形成している城内最大の樹木で、推定樹齢は約450年と云われている:
これが現在の大手門にあたる一の橋の門:
一の橋を境にして城内が二の丸、城外が三の丸になる。江戸時代の中頃まで「一之橋御門」と呼ばれていたが、その後に「大手門」へ改称された。明治48(1909)年に倒壊し再建されることがなかったが、昭和58(1983)年に古写真などを参考に復元された。高麗門形式で、間口が11mほどある門に架かる一の橋も、その翌年に復元された。
そして最後は大手門から城外にでて、北内堀を横目に西の丸や吹上門方面に戻ることにした:
城の内郭(二の丸)と外郭(三の丸)を隔てる堀が北内堀:
本来はけやき大通りを越えたところまであったが、明治44(1911)年の市電の複線化に伴い埋め立てられてしまったとか。北内堀の南側の石垣には東隅に月見櫓、中央やや西に物見櫓、西隅に駿河櫓という二階建ての櫓が設けられ、多聞や土塀でつながっていたとされる。
北内堀を西へ進むと西の丸と二の丸を結ぶ御橋廊下(おはしろうか)が見えてくる:
御橋廊下は、城主とお付けの人、奥女中が二の丸と西の丸を行き来するために架けられた徳川期の橋で、外から見えないように壁と屋根が設けられており、部屋のような造りになっている。斜めに傾いて架かる廊下橋としては全国的に珍しく、平成18(2006)年に復元された。そして、これが西の丸跡:
おまけで、和歌山市駅までの帰り道に見かけた「勝海舟寓居(ぐうきょ)碑」。幕臣で軍艦奉行の勝安房守が紀伊水道の砲台建設視察時に泊まったと言われる場所らしい:
和歌山城攻め (フォト集)
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