城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2016年1月

小諸城 – Komoro Castle

重要文化財である小諸城の大手門は実戦的で、華美な装飾を省いた質実剛健な城門である

長野県小諸市にある小諸城は、平安時代末期に平家物語や源平盛衰記に登場する源氏・木曽義仲の配下の小室太郎光兼が館を構えたのが始まりで、のちに土豪・大井氏が小室氏の勢力を抑えて、その付近に鍋蓋城と支城を築いた。戦国時代になると、甲斐の武田信玄により鍋蓋城は落城し、その跡地に山本勘介と馬場信房に縄張させ築城したのが小諸城(別名:酔月城)である。武田氏が滅亡して織田信長の家臣・滝川一益が関東管領として信濃を支配するも、信長が横死した後は、相模北条、三河徳川、信州真田、越後上杉らの争奪戦が勃発、そして豊臣秀吉による小田原の役を経て、仙石権兵衛秀久が小諸五万石の大名として入国した。秀久は本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を建てたと云う。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では中山道を進んだ徳川秀忠ら徳川軍の主力が入城し、西にある上田城の真田氏を牽制するも、真田昌幸の計略に翻弄され敗退、天下分け目の戦に遅参するという失態をおかした。その後、引き続き江戸時代初期も仙石秀久・忠政父子の二代が小諸を治め、大手門や石垣などの城郭と城下町・街道の整備を行った。それから仙石氏が上田藩へ移封されるまでの32年の間に、現在の小諸の街の原型が築かれたと云う。その後は徳川氏、松平氏、牧野氏らが藩主を勤め、明治時代の廃藩置県で役割を終えた小諸城本丸では「懐古神社」を祀り、三の門より城内は「懐古園」として市民に開放された。

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石垣山一夜城 − Ishigakiyama Castle

現在の小田原城天守閣から眺めた石垣山城方面の眺望(手前の低い山)

豊臣秀吉は天正13(1585)年に関白に任官し、その年と翌年で四国と九州攻めを行って西国をほぼ平定した。その次に東国に目を付けた秀吉は「関東・奥両国惣無事令(そうぶじれい)」を発布し、関東と奥両国(陸奥国と出羽国)において、「以後、大名同士の領土の取り合いがあれば、関白として征伐する」旨を通達した。そして後陽成(ごようぜい)天皇を聚楽第(じゅらくてい)に招き、全国の諸大名にも列席を命じたが、北条氏政氏直父子は列席しなかった。それから後の天正17(1589)年10月に、上野国の沼田城代を務めていた北条方の猪股邦憲(いのまた・くにのり)が、突如、利根川を挟んだ真田領の名胡桃城を占領するという事件が勃発した。以前から北条家の振る舞いに苛立ちを見せていた秀吉は、これが惣無事令に違反したとみなして言い分を聴くための猶予を与えたが、北条氏政はこれを無視した。その結果、同年12月13日に、秀吉は宣戦布告の朱印状をもって、諸大名らに陣触れを発した。一方、早くから手切れになると予想していた北条氏政は、小田原城やその他の支城に戦支度を命じており、ちょうどこの時期には小田原城を囲む総構(そうがまえ)を完成させた上に、およそ五万四千の兵に動員をかけていた。しかしながら秀吉の動員力はそれをはるかに凌駕し、およそ4倍の二十二万の軍勢を擁し、東海道から秀吉本隊が、東山道から前田・上杉・真田勢が、そして相模湾には長宗我部・九鬼らの軍勢を進軍させた。支城を各個撃破しながら進んだ秀吉は、小田原全体を見下ろせる笠懸山(かさがけやま)の山頂に本陣を置き、一計を持って城を「あたかも」一夜で築いたかのように見せかけた。これが石垣山一夜城の名前の由来である。

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小田原城 − Odawara Castle

徳川時代の小田原城は複合式層塔型三層四階の復興天守

神奈川県小田原市にある小田原城は、その昔、室町時代に西相模国一帯を支配していた大森氏が現在の県立小田原高校付近にある八幡山という高台に築いた山城が前身と云われている。そして有名な伊勢新九郎こと北条早雲が支配地の伊豆国から相模国へ勢力を拡大した際に小田原城を奪取し、以後、後北条氏が五代約100年にわたって居城とし、関東支配の中心拠点として整備拡張が繰り返され、武田信玄や上杉謙信といった名だたる名将が率いる大軍をも寄せ付けず、難攻不落の城と謳われた。特に関白秀吉による小田原仕置に備えて造られた、城下を囲む総延長9kmにも及ぶ総構(そうがまえ)は全国でも例のない規模の大改修であった。しかしながら小田原の役により後北条氏は滅亡し、徳川家康による関東支配が始まると、大久保氏が入城して近世城郭の姿に改修され、その後に入城した稲葉氏の時代にも再整備があり、城郭の規模が小さくなって、現在ある縄張程度になったと云う。その後、大久保氏が再び城主となり、明治時代まで続いたが廃城となり、城内の多くの建物が解体されたものの、のちに神奈川県庁の所在地に指定され、御用邸が建てられた。それから大正12(1923)年9月の関東大震災では、そこで建てられた御用邸の他に石垣もほぼ全壊し、徳川時代の遺構が失われてしまった。昭和35(1960)年になって、廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣がコンクリート製で復興され、続いて常盤木門(ときわぎもん)、銅門(あかがねもん)、馬出門などが復元された。

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宇和島城 − Uwajima Castle

伊達宗利が改修した宇和島城の天守は三層三階総塗籠で、独立式層塔型

愛媛県宇和島市は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた、日本屈指のリアス式海岸地帯にある。その市街地のほぼ中央にあるのが宇和島城である。その歴史は、慶長元(1596)年から六年の歳月をかけて、関白秀吉から伊予国7万石を拝領した藤堂高虎がそれまで中世山城だった板島丸串城を近世城郭に改修し、大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張にしたところから始まる。その際に、高虎は三層三階の望楼型天守を建てた。そして慶長19(1614)年には伊達政宗の長子である秀宗が徳川秀忠から伊予国10万石を拝領し入国、石垣や天守、矢倉などが修築された。さらに時がながれ、徳川の治世になった寛文6(1666)年、二代目の伊達宗利の頃に天守が修築されて現在の三層三階の層塔型になった。この頃には「城が軍事拠点である」という重要性が薄れた時代であったため、それまで付いていた狭間や石落としが無くなり、代わりに千鳥破風や唐破風など装飾性の高いものが取り付けられた。その後、明治維新で天守・追手門を除く全ての建築物が解体、太平洋戦争では追手門が焼失した。現在は堀がすべて埋められ、三の丸をはじめ総曲輪部分約28万平方メートルは失われているが、本丸、二の丸などの曲輪約10万平方メートルの城山は国史跡に、そして現存12天守の一つに数えられる天守は国重要文化財に指定され、搦手口にある上り立ち門は慶長期の建築物の可能性が高いとして市指定文化財になっている。

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大洲城 − Ōzu Castle

清流肱川の畔に築かれた大洲城の天守は木造復元の複合連結式層塔型四層四階

愛媛県大洲市にある大洲城は肱川(ひじかわ)の畔にある地蔵ヶ岳と呼ばれた小さな丘を中心に築かれている。時代を遡ること元弘元(1331)年、その丘に宇都宮豊房が築いた居城が大洲城の始まりと言われており、さらに近代城郭として整備されたのは、天正13(1585)年に羽柴秀吉の四国平定後に道後湯築城を本拠とした小早川隆景の枝城になってからだと云う。これは、天正13(1585)年に入城した戸田勝隆、文禄4(1595)年に大洲城を居城とした藤堂高虎、そして慶長14(1609)年に淡路洲本から入城した脇坂安治の時代であり、慶長の時代には天守も築かれたという。そして、元和3(1617)年には米子から入城した加藤貞泰により大洲藩が藩立し、明治時代の廃藩置県まで続いた。加藤氏の時代には天災により大破した三の丸南隅櫓や苧綿櫓(おわたやぐら)、台所櫓、高欄櫓(こうらんやぐら)などが再建され、これらは昭和32(1957)年に国の重要文化財の指定を受けた現存建築物である。天守は明治時代に取り壊されたが、大洲市の市制50周年を迎えた平成16(2004)年には四層四階の天守として木造で復元された。大洲城は明治期の古写真や雛形、発掘史料が豊富であったため、往時の姿をほぼ忠実に復元できたと云う。また、一般的に建築基準法では、この規模の木造建造物は認められないが、保存建築物として適用除外の認可がおりたという。

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和歌山城 − Wakayama Castle

外観が復興された和歌山城の天守閣は浅野幸長が手がけた連立式層塔型三層三階

和歌山県和歌山市にある和歌山城は、天正13(1585)年に羽柴秀吉が紀州を平定したのちに、異父兄弟の秀長に命じて虎伏山(とらふすやま)の峰に築城させたものがはじまりだとか。この時、藤堂高虎らが普請奉行を務め、彼が手がけた最初の本格的な近世城郭となった。この時、大納言秀長は大和郡山城を居城としていたため、城代として桑山重晴が入城した。その後、秀長のお家が断絶すると、桑山重晴が城主となった。彼の時代に山嶺部分や大手口として岡口が整備された。それから慶長5(1600)年の関ヶ原の戦ののちに、浅野幸長(あさのよしなが)が37万6千石で領主となり、城の大規模な増築を進めた。この時に連立式天守閣が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷が造営された。さらに大手門を岡口門から一の橋の門に変えて、本町通りを大手筋として城下町が整備された。元和5(1619)年には、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が藩立する。頼宣の時代に、二の丸を拡張し南の丸と砂の丸が内郭に取り込まれて、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は「南海の鎮(しずめ)」として、西日本を監視する中心的な存在となり、のちに八代将軍吉宗や十四代将軍家茂を輩出した。明治4(1871)年の廃藩置県により、陸軍の管轄下に置かれ、明治34(1901)年に和歌山公園として開放された。豊臣期、浅野期、徳川期の3期に渡ってそれぞれ築かれた石垣は、石の種類や工法(野面積み→打込接→切込接)が異なっており、それが見所の一つとなっている。

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