天下分け目の関ヶ原から十四年後の慶長19(1614)年、方広寺鐘銘事件で江戸に幕府を開いた徳川家との緊張が頂点に達していた豊臣家。内府こと徳川家康は淀君人質や大坂の国替えなど無理難渋を豊臣家に突きつけ、ついには東西手切れに傾き、その年の12月に大坂冬の陣が始まった。徳川側の兵力約20万人に対し、豊臣側はその半分の10万人程。緒戦の豊臣軍は城外に出て木津川口や鴻野・今福と言ったいくつかの砦で激戦を繰り広げたが、結局は大坂城へ撤退する。この時齢49歳の眞田幸村こと眞田左衛佐信繁《サナダ・サエモンノスケ・ノブシゲ》は、配流先の九度山を息子の大助(幸昌)や旧臣らと共に脱出し、大坂城に入城していた。当初、幸村は進撃してくる徳川軍を近江の瀬田川辺りで迎撃し、冬の川を渡る敵軍に銃撃を浴びせ、足止めする間に寝返る大名らが出てくるだろうと主張したのに対し、淀の御方の「鶴の一声」によって難攻不落と謳われた大坂城での籠城策に決した。そこで幸村は大坂城で唯一の弱点とされていた城の南東にある玉造口《タマヅクリグチ》の外に大きな出丸(真田丸)を築く。この真田丸は、まさに甲州流軍学の流れをくむ三日月形の堀と柵を備えた巨大な馬出であった。徳川側も大坂城の弱点となる、この地には前田利常、井伊直孝、松平忠直といった多くの大名を配置し、その後方には徳川家康・秀忠らの本陣を置いた。幸村は5千の兵でこれら2万の兵と対峙することになる。一方の家康は、関ヶ原の戦などで幸村の父・昌幸に散々に蹴散らされた苦い経験があることから、諸将には無闇な攻撃を自重してプレッシャーをかけてほころびが出るのを待つ戦略を言い含めていたが、真田丸と対峙していた前田利常ら加賀勢が真田丸からの執拗な挑発に苛立ち、ついに策略に釣られて真田丸へ押し出してきた。そして、赤備え《アカゾナエ》で軍装を統一し士気を高めていた幸村ら真田丸からの一斉射撃で、大坂城攻防戦の幕が切って落とされた。
昨年は平成26(2014)年の盆休みに大坂城周辺にある眞田幸村ゆかりの場所をいくつか巡ってきた。大坂冬の陣における真田丸での戦い、そして夏の陣における天王寺・岡山の激戦の後に休息のため立ち寄り討死した神社など、その言い伝えにゆかりのある場所が大坂城の周辺に残っている上に、付近には六連銭やら赤備え風の幟なんかも立っていたりして、今更ながら「眞田幸村公」の人気の高さには驚くものがあった。今年に入ると、平成28(2016)年の大河ドラマである「真田丸」の放送に合わせて「ゆかりの地マップ」なんかも公開されていたりして(当時) 。
先ずは大坂冬の陣で幸村が築いた真田丸があったとされる玉造方面。ここに三光神社という中風(脳卒中)除けの神様として、また七福神の寿老人の神社として古くから信仰があった神社がある。最寄り駅はJR大阪環状線の玉造駅。ここから「日之出通商店街」を横切り、玉造筋を渡って西へ向かった小高い丘に三光神社が建っていた。
これは商店街のあちらこちらに建っていた幟。赤備えの生地に六連銭、そして兜を模したロゴがとてもいい感じ :
真田山こと宰相山公園の横にある「真田山 三光神社」:
参道を登って行くと、「大阪の陣400年」の幟と共に真田丸に模した一画に入った:
この直ぐそばには、今もなお真田丸にて采配を振るっているかのように立つ「眞田幸村公之像」があった:
この銅像の台座は「真田石」といって、信州上田にある眞田家の菩提寺である長谷寺より取り寄せたものらしい。そして、この銅像の奥には「真田の抜け穴」と言い伝えられている地下道の一部が残されていた:
抜け穴には施錠された鉄扉が立っていて、中に入ることはできなかった。さらに鉄扉の周りにある洞穴っぽい石積は後世のもの。ただ、最近は毎年催される真田祭りにて開放されることがあるらしい:
由緒によると、三光神社があるこの場所は元々は大坂城の出城があった処らしく、眞田幸村が此の地に偃月城《エンゲツジョウ》と名付ける塁を定め、大阪城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ、今なおその跡が三光宮鎮座の階下にあると云う。
但し、残念ながら現在では、当時、徳川方が大坂城攻めの際に金堀衆らを使って掘ったものだとか、まったく後世の作り物だとかという説が有力になっている。
境内奥にある拝殿には、地元のお祭りで使うのであろうか、レプリカの赤備えがいくつか鎮座していた:
ちなみに、ここ三光神社は大阪七福神のうち、第4番の寿老神眞田山いなり社(現三光神社)にあたるらしく、寿老人の神社として古くから信仰を集めたという:
そして三光神社の隣にある宰相山公園は、遠目から見ると、その構造から真田丸をかなり意識した造りになっていた:
最近読んだ雑誌で真田丸の形状について新説が取り上げられていた。従来説では、「形の整った半円形状の馬出」と考えられていたが、新説では「横長の楕円形」をベースとし、「その背後となる大坂城側には深く広い渓谷」が横たわり、背後を取られても最後まで対抗できるように「小さな曲輪」も追加された二重構造であったため、容易には城との往来ができなかった、まさに「陸の孤島」であったとか。さらに敵と対峙する南側には長大な空堀が横たわり、その上には塀が巡らされ、二層の櫓が建ち、遠方の的には頭上から、接近してくる敵には下方から攻撃を加えることが出来たと云う。
そんな冬の陣の大坂城籠城戦は、まさに幸村の真田丸から始まったと伝えられている。真田丸と対峙していた前田利常隊が、真田丸からの執拗な挑発にまんまと釣られて突撃する。さらに、これに併せて井伊直孝隊、そして幸村の偽矢文でおびき寄せられた松平忠直隊も兵を進めた。皆、軍令を無視し竹束や盾も持たずに突撃し、さらに真田丸に取り付いた前田隊は折からの濃霧のため状況を把握しきれず右往左往している中、真田丸から弓鉄砲が雨あられで浴びせられ、真田丸の空堀は死傷者で埋まってしまったと云う。あまりの壮絶な光景に真田丸からの射撃が中止されたという記録も残っている。こうして、大坂城南方面の籠城戦は徳川側が10,000以上の損害を出して終わったという。
これにより、改めて大坂城の難攻不落ぶりを認識した家康は、より一層の慎重策を進めることにした。これに加えて金堀衆らを使って坑道を本丸へ向けて堀ったり、芝辻砲という大砲を本丸に向けて撃ち放っていた。その一方で両軍は共に兵糧不足もあって講和の可能性を探り始めていた。そんな時、淀川中洲の備前島から撃ち放っていた大砲が、大坂城の天守二層目の柱に命中し、城方の淀君はこれで戦意を挫かれ、講和が加速していく。そして、豊臣徳川双方は「内府公の名誉に配慮して、少なくとも外周の城壁を破壊して平坦にする」という条件で講和に合意したと云う。この条件が、「外周=全ての溝」といった具合に幕府側が都合の良いように解釈して、わずか一ヶ月で本丸を除く城内の全ての建物が破壊され、それらの廃材で堀が埋められ「丸裸」になって大坂冬の陣は終わった。
三光神社の次は、 大阪市営長堀鶴見緑地線の玉造駅から谷町六丁目を経由し、大阪市営谷町線に乗り換え長原まで移動した。ここには徒歩20分ほどの所に、大坂夏の陣の道明寺の戦いで退却する途中、幸村が軍旗や刀剣を奉納し戦勝を祈願したという日陰明神こと志紀長吉神社《シキガナヨシ・ジンジャ》がある。
そして、こちらも玉造駅そばの商店街と同様に、赤備えの生地に六連銭の付いた幟が立っていた:
これは、志紀長吉神社の参道に建つ大鳥居:
この鳥居をくぐった突き当りが志紀長吉神社で、これがその本殿:
この神社の由緒は、日本最古の書物の古事記や日本書紀にも名が残る延喜式内の神社で、祭神は長江襲津彦命、事代主命の二座という。明治5年に旧郷社に列せられた頃は、各村の総氏神であったが、現在は長吉一円の氏神とのこと。交通安全勝運祈願厄除けの宮の他に、大坂夏の陣で幸村ら眞田勢が立ち寄って戦勝祈願したことで有名。
時は、形だけの講和で終わった大坂冬の陣の翌年にあたる慶長20(1615)年5月6日。後手後手に回っていた豊臣側は後藤又兵衛、眞田幸村、薄田兼相《ススキダ・カネスケ》、毛利勝永、明石全登《アカシ・テルズミ》、大谷義胤《オオタニ・ヨシタネ》、福島正守・正鎮など総勢20,000の軍勢で大坂城を出陣し、奈良盆地の入口付近にある道明寺付近で徳川勢と激突する。その中で、幸村率いる眞田勢は誉田《コンダ》付近で伊達政宗率いる騎馬鉄砲隊と激しい銃撃戦を繰りひろげ、その後、大坂城の大野治長から退却命令が出たため、眞田勢が殿となって整然と引き揚げたが、その際に、この神社の馬場で兵を休め、最後の戦勝祈願に六文銭の軍旗と刀剣を奉納したと云う。刀剣の方は太平洋戦争の終戦後に連合軍に没収されるも、六文銭軍旗は社宝として保存されているようで、例年正月2・3日と5月4日には一般公開されているようだ。
そんな志紀長吉神社では、「日本一の兵《ヒノモトイチノツワモノ》」と謳われた幸村の武運にあやかった「勝守」なるものがが販売されていた:
三途の川の渡し賃であり、自らの退路を断ち、決死の覚悟で戦いに活路を見出すという「不惜身命」の心意気を現す六連銭。そんな幸村公が戦勝祈願をした軍旗は赤地に六連銭を染めぬいたもので、志紀長吉神社ではこれに因んで、赤地に六連銭を描いた勝守が販売されていた(当時800円):
それから神社をあとにして、眞田幸村が休息した場所が近くにあるということで境内の外をウロウロしてみたものの見つからず、困り果てたので、側を自転車で通過しようとした地元のおばちゃんに教えてもらって[a]Thanks! 、なんとかたどり着くことができた。先ほどくぐってきた大鳥居から神社とは反対側の住宅街の中にあった:
南河内誉田方面において東軍伊達政宗軍と一戦を交えた後、古市街道を経て大坂城へ帰城途中、この地にて休憩したと云う。
綺麗な正門は施錠されておらず、そのまま入ることができるので、奥に進むと石碑が建っていた:
石碑の裏側には「神徳をたたえ奉りて 思う心のうちの霧晴れて 神の利生に任せこそすれ」という幸村公の句が刻まれていた。
大阪夏の陣で豊臣側は、丸裸にされた大坂城を出て、現在の大阪府南河内羽曳野市《ハビキノ・シ》辺りの道明寺で東軍を待ち構える予定であったが、武将間の連絡不足や濃霧などが重なり、各隊の到着がばらばらになったその隙を徳川勢に突かれ、まずは後藤又兵衛が伊達政宗の片倉重長率いる鉄砲隊と孤軍奮闘したのちに討死してしまった。そして、豊臣側の後続が到着した頃には、徳川側35,000の布陣が完了していた。豊臣秀頼公の出馬を促しながら遅れに遅れた幸村の眞田勢3,000、その他、渡辺糺《ワタアナベ・タダス》ら8,000ほどの軍勢が到着するのを見た毛利勝永や後藤又兵衛の敗残兵は「地獄で仏を見た心地がする」と喜び勇んだと云う。
眞田勢が到着した誉田村の前に布陣していたのは伊達政宗10,000で、先手は片倉重長ら三段備えであった。しかしながら、眞田勢の突撃は異様な迫力に満ちたもので、まん丸と密集陣形と取りながら進み、機を見て旗印を左右に広げて伊達勢に射撃を加えた。伊達勢も反撃したが、眞田勢の勢いが鋭く、たちまち誉田村まで押し戻されてしまった。伊達勢は朝から後藤又兵衛の軍と戦っていたため先手の片倉勢が疲労してしまい、二陣と備えを入れ替えている隙に、眞田勢が攻勢をかけたので、伊達勢は一気に崩れたった。それを知った政宗は自ら本陣から駆けつけ、引き連れてきた旗本鉄砲隊で応戦したため、辛うじて大敗を免れたと云う。まさに伊達政宗の完敗であった[b]伊達家の史料でも認めているらしい。。
その後、退却命令で幸村が殿を務めたが、徳川方が追撃してこないのを知って、「関東勢は百万もの軍勢なのに、真の男は一人もいないようだ」とうそぶいたと云う。この時、嫡子の大助もよき敵の首級をあげるも、自らも足に傷を負った。
志紀長吉神社と幸村公の休憩所を訪問した後は、再び長原駅から大阪市営谷町線に乗り、四天王寺前夕陽丘駅で降りて、そこから徒歩で愛染坂を経由して安居天満宮こと安居神社へ移動した:
「真田幸村戦死の地」である安居神社:
安居神社の御祭神は少彦名神《スクナビコナ》と菅原道真公。少彦名神を祭祀した時期は不明だが、医薬禁厭(医術・薬方・まじない)知識の祖神として崇められてきたとか。
そして、その境内の一画には眞田幸村陣没の旧跡があり、そこに幸村公の像と石碑が置かれている:
伊達政宗と死闘を繰り広げた日の夜、眞田勢は茶臼山[c]現在の天王寺公園あたり。に陣をはり、その翌日未明の軍議で幸村は、「もはや、お城もかぎりと存ずる。ついては未だ余力のある本日、最後の決戦をしてはいかがか。一同、無二無三に内府家康の旗本に斬り込み、城の破れることも、戦の負けることも、一切かえりみぬことにし、事ついにならずば、一人ものこらず潔く討死するというのはいかがか」。もはや豊臣側には選択肢は残っておらず、この策で皆同意したと云う。ほどなくして、城中からも部隊が茶臼山付近に集結してきた。この時、茶臼山に眞田幸村、その左方天王寺の南門には毛利勝永、さらにその左方に大野修理、そこから少し下がった左方に大野主馬が布陣し、奇兵となって決戦場を迂回し、敵の背後を突く役として明石全登が右方後方の舟場にひかえた。
慶長20(1615)年5月7日の正午頃、徳川勢が押し寄せてきた。徳川勢の到着が意外にも早く、さらに秀頼公が出馬に手間取り、せっかく出馬したのに桜門までしか出ることがなかった。そのため迂回して背後から奇襲しようとしていた明石全登も思うように移動できずにいた。そんな中、徳川先方隊である本多忠朝、眞田信吉、浅野長重、秋田実孝らと毛利勝永隊の激突で最後の戦いの幕が上がる。徳川軍を天王寺へ引き付ける囮役であった毛利勝永であったが、その猛攻は凄まじく、徳川先方隊をことごとく撃破し、本多忠朝や小笠原秀政を瞬く間に討ち取り、寡兵ながら内府家康の本陣目指して真一文字に突き進んでいた眞田勢が家康の旗本勢に肉薄できたのは、まさしく毛利勝永隊の活躍によるものとされる。
同じ頃、明石隊が思うように進軍できずにいたため、赤備えの眞田勢は明石勢を待たずに突撃を敢行していた。正面の松平忠直隊、続いて徳川義宣隊を突破し、本多忠政、松平忠明らの陣へ突撃し、幸村は十文字の槍を振るって、突き立て、たたき立てして、「内府はいずこぞ。眞田左衛門佐幸村見参!」と呼びまわり、まるで阿修羅のように暴れまわったので、流石に精鋭を揃えていた家康の本陣も崩れ立ち、家康は生玉まで三町ばかり逃げ出したと云う。家康は、武田信玄公の三方ヶ原の戦いに次いで本陣が踏みにじられるという醜態をさらすことになった。
しかしながら衆寡敵せず、徐々に大軍に抑えこまれ始め、眞田勢のほとんどが討死、あるいは傷付きし、幸村も傷を負って疲労したところで、安居神社にて休憩している際に、越前松平家中の西尾仁左衛門に討ち取られたと云う:
上の写真に見える一本松あたりで幸村が討死したと云う。当時の松は既に枯死したが、安居神社の社殿を復興した昭和26(1951)年に「さなだ松」として植樹されて、今に至る。
また、幸村公の嫡子大助は決戦の朝に父に諭され、大坂城へ戻って秀頼公にお共して切腹したという。齢わずか14歳である。
安居神社境内の片隅には、眞田氏つながりで大坂城と上田城が友好城郭提携を結んだ記念として、上田市から贈られた枝垂れ桜《シダレザクラ》が植樹されていた:
安居神社の拝殿を含む社殿は昭和に入って復興された:
大坂夏の陣で豊臣家は滅亡したが、その一ヶ月後、参陣前に勝敗が決していたが、幸村の活躍について人づてに聞いた薩摩藩主島津家久は、敵ながらも幸村を讃える覚書を書き残していたと云う:
5月7日、大御所(家康)様の陣に眞田幸村が攻めかかって本陣を守る衆を追い散らして討ち取ったという。しかし、三度目で眞田も討死した。眞田は日本一の武将で、古《イニシエ》からの物語にも比べる者のいない勇将である。
最後に、こちらは安居神社の事務所に飾ってあった「信州上田 真田十勇士」なるポスター:
今回は、こちらの手ぬぐいをお土産に購入した:
真田幸村ゆかりの地巡り- 大坂夏の陣 (フォト集)
真田幸村と大坂の陣(2) (攻城記)
真田丸攻め (フォト集)
昔観た歴史秘話ヒストリアの再放送「発掘!真田幸村の激闘 ~最新研究から探る 大坂の陣~」で、真田の抜け穴について新説が。
しかし、歴史秘話ヒストリアは毎年1回は真田家を取り上げているなぁ。
九度山に蟄居していた時、父昌幸から「そちには俺ほどの貫禄がない。同じ策を献じても、人は従わぬであろう。」と予感したという。実際に、大坂城に入城するとそのとおりになり、最初は優遇されたが、あとになってから徳川方に居る兄信之を引き合いだされて、内通を疑われたり、献策が用いられないなどの不遇をみたらしい。
広島出張を終えて関東へ戻ってきた2014年の後半は、信州上田城や上州沼田城なんかも攻めてきた。こちらも真田氏の人気は抜群だったなぁ。