「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と月に祈願する山中鹿介幸盛

山陰の麒麟児の異名を持つ山中鹿介(しかのすけ)こと、山中幸盛。「願わくば、我に七難八苦を与え給え。よくこれを克服して武士(もののふ)として大成したい。」と月山富田城から三笠山にかかった三日月に向かって祈ったというエピソードで知られ、主家の尼子家のために毛利家と戦ってきた不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を持った戦国武将である。出雲尼子家は、清貞の時代に一度没落していたが、その遺児の経久が尼子再興をかけて(月山)富田城を計略で乗っ取った際の家臣に山中勝重らの郎党がいた。もともと山中家は、没落の原因となった清貞の弟・幸久の血筋であるが、彼のお家を危うくする兄・清貞を排除しようと計画していたクーデターが露見し幽閉されてしまったのだとか。その幸久から数えて四代目の満幸に二子あり、その末弟が甚次郎こと鹿介である。虚弱体質の兄に代わって家督を継いだのは、謀聖・尼子経久の孫である晴久が頓死した年であり、永禄3(1560)年、甚次郎が十六歳の時であった。代々家に伝わる三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑(かぶと)を譲り受け「鹿介」と名を改めた。そして、生まれが八月十五日の中秋名月であることにちなんで、生涯新月を信仰するようになったと云う。鹿介が家督を継いだ時の主家は晴久の嫡男・義久が継いでいたが、わずか出雲半国をなんとか保っているという落ちぶれようだった。そして旧領復活のため毛利家と幾度と無く死闘を繰り広げ、その間に鹿介は毛利方の品川大膳との一騎討ちなどもあったが、ついに尼子家は永禄9(1566)年に毛利の軍門に降り、富田城を開城した。その後は、新宮党事件で唯一の生き残りである誠久の五男・孫四郎こと尼子勝久を主君として主家再興を誓って、時には織田信長や羽柴秀吉らの力を借りて、三度、毛利家と死闘を繰り広げるものの、最後は上月城の籠城戦で降伏・開城することになった。鹿介は勝久の助命を嘆願したが、吉川元春は許さず、士卒の命と引き換えに切腹させた。そこで鹿介は毛利家に一矢報いるために降伏したように見せかけ安芸へ連行されることになったが、その途中、備中甲部川(こうべがわ)の阿井の渡しで逆に謀殺されてしまった。享年34。

父を早くに亡くした鹿介であったが、彼の母はなかなかの賢母で、貧しいながらも厳しく、そして優しさをもって育て、彼の望重力に大きな影響を与えた女性だったという。そのおかげで、彼を慕い、彼に付き従う郎党が多かった。それに加え、鹿介自身の素質も戦国武将としては恵まれていた。本当かどうかは分からないが、齢八歳にて初めて人を斬ったという伝説が残っている。

八月十五日の中秋名月に生まれた鹿介は新月を信仰した

山中鹿介幸盛祈月像

尼子晴久が毛利元就を吉田郡山城に攻めたものの、大内家の後詰である陶晴賢の加勢により大敗した。それから五年後の永禄8(1565)年には、逆に毛利元就が月山富田城を三面より攻撃した。この毛利軍の包囲中に、鹿介は毛利方の武将である品川大膳と一騎討ちを行ったという。大膳は石見(いわみ)国の生まれで「勇猛世に鳴り、力量人を越え、行ける猪子の肩を裂き、乳虎の怒りにもあたる血気の兵(つわもの)なり」と評されている武人である。彼は、「尼子家中山中鹿介を味方の人々は鬼神のように言いなして恐れている。俺は必ず鹿介と手詰の勝負をして討ち取ってくれよう」と常々広言し、名を棫木 (たらぎ)狼之介勝盛と改めた。春になって鹿の角が落ちるのは棫(たら)の新芽を食べたことによるものであり、鹿に勝つものは狼であり、幸盛に勝つから勝盛といった具合に全て縁起担ぎの名前にした。
ある時、鹿介が富田川の堤を歩いているのを見かけた狼之介は川を隔てて一騎討ちを申し込んだ。武器は太刀、場所は河中の洲と約束したと云う:

鹿介と狼之介が一騎討ちしたのは、こんな場所だったのだろうか

現在の飯梨川(富田川)の中洲

二人の決着は諸説あるらしいが、結局は鹿介が狼之介を討ち取った。「石見の国より出たる狼を、出雲の鹿が討ち取ったり」と鹿介が叫んで勝どきを挙げたと云う。
現在は広瀬町に「川中島の一騎討ち」として碑が建っていた:

ここが鹿介と狼之介とが一騎討ちを行た場所という

川中島一騎討ちの碑

一騎討ちをしたという場所が飯梨川(富田川)から離れ、随分と陸地に行ってしまっているような気もするが、これは恐らく近世の富田川の氾濫(富田城下が水の中に埋もれてしまったこと)によるものと推測する。そして、この碑の近くに品川大膳の墓所もあった:

大膳は毛利方益田越中守の郎党で猛将だった

伝・品川大膳の墓

富田城開城後、毛利に降ったふりをして、隙を見て脱走した鹿介は、一時期、丹波国あたりで海賊となっていたが、因幡国の山名豊国を助けて、彼の兄の仇である武田高信が籠城していた鳥取城を奪取することに成功している。その時の豊国の鹿介に対する感謝はひと通りではなく、あとで毛利に降った時に織田の先鋒として乗り込んできた鹿介に対し、由あって手助けできないが兵糧などは用立てすると云うくらいであった。

鹿介、立原源太兵衛(尼子十勇士の一人)、尼子勝久らが明智光秀を介して織田信長に謁見したのは元亀3(1572)年の冬だった。信長が岐阜から上洛する途中、近江の大津でのことである。信長は鹿介らに杯を与え、さらに鹿介は四十里鹿毛という駿馬を頂き、立原には貞宗の刀を引き出物としたとある。信長は既に近畿を手中に納め、その矛先を毛利のいる西国へ向けようとしている頃であり、鹿介らが協力を仰ぎたい気持ちになるのは当然であろう。信長の中国征伐時には先手を承って押し進み、旧領の出雲国を主人の勝久に賜りたいという思いを信長に告げた。

そして鹿介、源太兵衛、勝久ら尼子勢は明智軍の先鋒として丹波路から因幡に入り、向かうところ敵無しとして、各所の城や砦を陥れた。すると、ありがたいことに旧恩によって馳せ参じる者共が引きも切らずで、総勢三千人ほどの軍団になった。一方、毛利家も黙っているわけにはいかなくなり、吉川元春と小早川隆景の両将が大軍を率いてやってきた。尼子勢もねばったが名将の二人を前に負け戦が続き、京へ引き戻らざるを得なくなった。とはいえ、ここでも鹿介は諦めず、お次は中国方面軍の羽柴秀吉と黒田官兵衛らと合力して姫路へ向かい、播磨と備前と美作の境目にある上月(こうづき)城を陥れ、鹿介ら尼子勢で守備した。

しかしながら尼子家の趨勢は既に決しているかのように、ここから不運が重なる。
秀吉らは戦勝報告のため安土城へ凱旋したが、その間に吉川元春と小早川隆景が宇喜多直家を伴い、総勢四万九千の大軍で上月城を囲んだ。さらに播磨の三木城では別所長治が信長に叛旗を翻した。秀吉は信長に上月城への援軍を頼み、自分は三木城へ急行して弟の秀長に包囲を任せて、再び信長の援軍と共に上月城へ向かったが兵数の差は如何ともしがたく、決戦することなく睨み合いが続いた。その後、信長の援軍は退却することとなり、ますます尼子勢は劣勢になっていく。やがて信長は上月城を見捨てて、三木城の攻略に専念するよう秀吉に命じる。秀吉は信長に助勢を嘆願するも聞き入れてもらえず、仕方なく鹿介の義子である亀井新十郎を使いとして上月城に潜らせ、「合図するから、それに応じて城から突撃して出て来られよ。我らが待ち受けて収容するであろう。」と伝えたが、鹿介は「我ら一人であれば斬り抜けることは可能だが、士卒はそうはまいらぬ。己一人助かって士卒を死なせることは、拙者には出来申さぬ。」と返答してきた。そうこうしている間に食糧もなくなって致し方なくなり、ついに鹿介は毛利に降伏を願いでた。毛利方は、鹿介に幾度か煮え湯を飲まされていたので、今回ばかりはやすやすと降伏を受け入れたりはしなかった。「勝久が切腹するならば、士卒は助命しよう」と返してきた。鹿介は何度も勝久の助命を乞うたが、毛利方は拒否し続けた。

ここで鹿介は決心し、勝久に「武運つたなく、かかる仕儀になりましたこと、誠に残念でございます。恐れ多けれど、君には御自害あって士卒の命に代わっていただきとうござる。本来ならば、拙者もお伴すべきでござるが、思うことがござれば、しばし命を御貸し下さいますよう」。勝久はそうかと頷き、本来ならば世捨人として朽ち果てる身を尼子の当主に掲げてくれたこと、そして一時でも出雲の主として士卒を率いて戦うことが出来たこと等を挙げて鹿介らに感謝し切腹して果てた。享年26。

鹿介が惜しからぬ命を惜しんだのは、降伏したと見せかけて毛利家に潜り込み、吉川元春か小早川隆景を斬って、尼子家の恨みを晴らさんと画策したからである。しかしながら、毛利方にその隙がないまま、鹿介は西国へ送られることになった。鹿介は恨みを晴らす機会を狙らい、その昔信長に謁見した時に引き出物として拝領した四十里鹿毛の駿馬にまたがって上月城を出発した。
そして、備中国を流れる甲部川(現在の備中高梁を流れる高梁川)の阿井の渡しまで来たところで、先に従者を船で渡した。その船が戻ってくるのを河原の石に座って待っていた鹿介の背後から、毛利家の河原新左衛門が斬りつけた。鹿介はとっさに川に飛び込むも、同じく毛利家の福間彦右衛門も飛び込んで頭を押し付け、続いて川に飛び込んだ河原が鹿介の足を掴んでいる間に福間が鹿介の首を上げた。享年34であった。

この年の6月に備中松山城攻めをしてきたが、その際に鹿介が殺害された場所に建つ墓所に立ち寄ってお参りしてきた:

JR備中高梁駅から徒歩30分ほどのローソン横

山中鹿介幸盛の墓所

かの海音寺潮五郎先生は彼の著作の中で、

「鹿介は名将というべき人ではあるまい。武者としては無双であったが、将器には乏しかったと思われる。」

と書かれていた。自分としては、これは三十四歳の若さからくるものだと思う。尼子家再興一筋に生きていた彼には自分のことよりも、主家をことを第一に考えていた。大軍を率いるほどの経験を積む機会は無かったが、時には浪人しながらも小さな機会を常に転機に変えようと、もがいていた若人であったのではないかと思う。

そんな先生は、最後にこうフォローもしている:

「将器には乏しいといっても、それは一流の名将らと比較してのことで、秀吉麾下の諸将星の大部分と比べれば、決して劣ってはいない。
(中略)
(その気になれば)五十万石や六十万石の大名となることは易々たるものであったろう。」

ここで、その気にならないのが鹿介らしいところだろう。
この鹿介の七転八起の英雄談は、戦前の国民教育の題材として教科書にも採用されていたらしい。

こちらは、後に富田城に入城した堀尾吉晴の奥方が、彼の英雄談を聞いて建てた供養塔と云う:

富田城址にある巌倉寺境内に残っている

伝・山中鹿介幸盛供養塔

最後に尼子家について。最盛期の尼子家を興した尼子経久公の銅像が飯梨川(富田川)の河川にある三日月公園に建っている:

三笠山を指差す経久公

尼子経久公銅像

 

三笠山を指差す経久公

尼子経久公の銅像

宇多源氏佐々木京極氏流・尼子家家紋

平四つ目結紋

 

そして、幸盛をはじめ、尼子家ゆかりの三笠山は富田川(高梨川)から眺めることができる:

笠状の山が三つ重なっていることから、その名がついた

富田川から見た三笠山

出雲国の尼子家は、もともとは近江国佐々木家の出である。この佐々木家は、征夷大将軍の源頼朝が旗揚げした際に一番に従った功臣である。その佐々木家の一族が近江犬上郡尼子郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町尼子)に住んでいたので、尼子を苗字としている。ちなみに、この源氏佐々木家は、その後、京極家と六角家に分かれており、共に京都に住まいがあった町名を苗字にしている。

その後の尼子家は滅亡したとかの記述を見ることがあるが、実際のところ尼子家は滅亡はしてはいない。富田城開城時に尼子義久とその兄弟が毛利家に降りているが、毛利元就が切腹を許さなかったため、芸州へ落ちていった後に毛利家から禄を貰い、その子孫は佐々木と名乗って臣下になって今に至るらしい。現に、上の経久公の銅像の建立には尼子の名が刻まれていた。後に、佐々木から尼子に復名したのだろう。

See Also山陰地方の武士(もののふ)たち (フォト集)