明応5(1496)年、本願寺八世蓮如上人が四天王寺の西にある石山という小さい丘に石山御坊という一向宗の道場を開いた。この石山という地名は、はるか昔に聖徳太子が四天王寺を築くにあたって地ならしした時に出た石を集めて埋めたことが由来であるとか。そして大坂という地名は、この蓮如上人が「摂州生玉荘内大坂という在所」と書き残しているのが史料上に現れる初例だという。その後、この石山御坊は石山本願寺に昇格し、本願寺第十一世顕如光佐の時代には第六天魔王・織田信長との抗争の舞台となる。顕如が正親町《オオギマチ》天皇からの講和の勅旨《チョクシ》を受け入れて、11年間にわたる抗争に終止符を打ち、石山本願寺を退去したその跡地に、豊臣秀吉が天正11(1585)年から築城を開始し、天下人に相応しい大城郭を築きあげたのが大坂城の始まり。それからは絢爛豪華な安土桃山文化に浸り、幾度かの戦火にもまれて、ついには落城した。その後は徳川家による泰平の時代に全面再築され、幕府直轄地として西国支配の拠点になるものの、明治維新の動乱、さらには太平洋戦争の空襲などで多くの建造物を焼失した。なお、徳川家によって再築された天守閣は、江戸初期の寛永6(1629)年に落雷により焼失し、それ以来、実に300年近くも再建されることはなかった。そして戦後の昭和6(1931)年に、現在ある鉄筋コンクリート製の天守が竣工した。このような複雑な事情を持ち、今や「天守閣」の代名詞ともなっている大坂城は大阪府大阪市中央区の大阪城公園として整備されている。
昨年は平成26(2014)年のお盆休みを利用して、出張先の別宅から近畿地方にある城をいくつか攻めてきた。初日は、もちろん大坂城。この当時、自分は大阪には生涯3度しか行ったことがなく、正直なところ大坂城の場所や行き方なんかは調べないと分からないという有り様。まぁそれでも、いろいろ情報を見て集めて制限時間内で巨大な城を攻めることが可能なルートを決めておいた:
さらに先月(当時)攻めた熊本城では苦い思いをしたのでしっかりと確認したつもりだったけれど、 運悪く見ていた情報に抜けがあって、結果的に伏見櫓跡とか一番櫓なんかを見忘れることになった。おまけに西の丸庭園は入場料を取るということで最初から敬遠してしまったし。それでも、今回のルートには、大阪ビジネスパークのクリスタルタワー21Fにある「キャッスルカフェ」というレストランの窓から大坂城の縄張の全景を拝めるという情報を入手して、外せないポイントとして追加しておいた。が、実はここでも運に恵まれていなかった・・・ 。
広島を8:00amに出発し、9:30amには新大阪に到着。そこから在来線のJR東海道本線と大阪環状線を乗り継いで大阪城公園駅に到着したのが10:00am過ぎ。駅を降りて地図を確認し、まずはキャッスルカフェのあるクリスタルタワーへ:
クリスタルタワー界隈はビジネス街でもあり、お盆休みはひっそりとしていたのが気になったのだけれど、とりあえずエレベータに乗って21Fへ移動してみたら、なんとキャッスルカフェは「お盆休み」 。このカフェはいわゆる「ビジネス街の食堂」的なお店で、会社が休みならお店も休みになるらしい。だから土日は休みで、平日のみの営業なのかぁ。掃除のおばちゃんが気の毒そうに俺を見ていた。緒戦からいきなりくじかれる羽目に。
肩を落としながらクリスタルタワーを後にしたのだけれど、それでも大坂城はちゃんと「そこに」あった:
そんなこんなで、目前にある天守閣を見て気を取り直し、ここから城攻めを開始する。そして第二寝屋川を渡った三の丸外曲輪から眺めた外堀たち:
本来は北外堀と東外堀は一つの堀だったのが、昭和初期に大阪陸軍造兵廠を拡張した際に東外堀が埋め立てられてしまった。その後、東外堀が復元されたのに、なぜか現在の青屋口枡形付近だけ掘り返されなかったとか。ということで、本来は引橋が架かっていたが、戦時中に埋められてしまった部分を通って青屋口枡形へ:
そして青屋口枡形を進むと青屋門がある:
この門は徳川秀忠による大坂城再築で造られたもので、明治維新の動乱で大破したが、その後は旧帝国陸軍によって改築されたものの、太平洋戦争の空襲で再び大破した。戦後の昭和44(1969)年に大阪市が再建したものが、現在の門である。青屋門を通った先は二の丸になる。
これが二の丸と内堀ごしに眺めた天守閣:
内堀に沿って西へ移動すると本丸に入ることができる極楽橋がある:
太閤秀吉の大坂城も、このあたりに木橋が架けられており、それを極楽橋と呼んでいた。大坂夏の陣で落城した後に、秀忠による大坂城再築で再び架け直された。さらに、この木橋は明治維新の動乱で焼失し、昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート製で三度かけ直された。極楽という名称は石山本願寺時代のものと云われている。
極楽橋を渡ると山里丸枡形に入る:
そして、ここでも天守閣がのぞいていた:
枡形を抜けると山里丸に入る。内堀に囲まれた本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。太閤秀吉時代には、山里の風情を醸し出す松林や、桜や藤などの木々が茂り、いくつもの茶室が建っていた:
山里丸からみた本丸石垣:
山里丸には大坂夏の陣で天守閣が炎上した後に、豊臣秀頼と淀殿らが自刃した場所があり、そこに碑が建っていた:
この碑の説明文には、「・・・ 大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。」とあるけど、自刃の地が「記念」なのか!? 。それから山里丸の端っこには「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」という供養菩薩がひっそりと置かれていた:
あと、山里丸には刻印石広場なる石垣に刻まれた刻印を展示している場所があった。どうも大坂城築城400年を記念して設置されたものらしい。刻印石は、大坂城の普請を命じられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積みの過程で必要に応じ石に文字や紋様を刻んで目印にしていたものと云われている。一見、太閤秀吉時代のものかと思われがちだが、全て江戸幕府が六十四藩を動員して築かせた時のもの:
山里丸から一段上の山里口出枡形《ヤマザト・グチ・デマスガタ》へ上る手前には、なんと太平洋戦争時の空襲の被害で付いた機銃掃射痕が名生々しく残っていた:
太平洋戦争当時、大坂城内には旧帝国陸軍の中枢機関や軍需工場が所狭しと建てられていたので、当然ながら連合国による空襲の標的になったわけだけど、他にも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数カ所歪んだが、現在はいずれも修復されているらしいが、天守台東側の石垣の歪は残ったままぽいけど・・・。
こちらが山里丸から見た一段上にある山里口出枡形の石垣と、そこから見た天守閣:
山里口出枡形は、本丸と山里丸を結ぶ通路に設けられた枡形で、これも徳川秀忠による再築工事で追加されたもの。南には本丸に通じる姫門、東には山里口門が建っていたが、ともに明治維新の動乱で焼失した。また西は埋門となっていて、隠し曲輪へと通じている:
この曲輪は、出入り口が狭くて気づかれにくく、名称どおり、兵士を隠すこともできた場所である。一時期幕府の煙硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、いつしか、ここには秘密の抜け穴があるとの伝説が生まれた。さらに、ここでは石垣の築造を担当した伊予大洲藩の加藤家、丹波園部藩・但馬出石藩の小出家の刻印を間近に見ることができる:
隠し曲輪を出て、再び山里口出枡形へ移動してから、本丸に入る。この手前からの天守の壮大さは、また格別である:
まず目に行くのは天守よりも天守台。天守台は大小の二つあり、寛永6(1629)年に天守は焼失したが、これらの天守台は残っていたとか:
人と比較すると、こんな感じ:
太平洋戦争時に、壊滅状態になるほど連合軍の砲撃を受けた東洋一の軍事施設だった大坂城。それでも天守台は崩れなかった。一部がずれている石垣:
天守台の壮大さを堪能したら、本丸西側の天守下仕切門跡を通り、横からの天守閣を眺めて:
それから正面へ移動した。お土産処「忍屋[a]その実体は公衆トイレ。」横にある撮影ポイントから見た天守閣。このように城内には撮影ポイントとなる場所に像が建っていた:
この角度からだと最上層に復元された豊臣期の黒漆塗りの下見板張の望楼部分がよくわかる。金箔風に押した虎と鶴の模様も再現されていた。ちなみに手前にあるエレベータが寄りかかっているのが小天守台。天守閣が建つ大天守台と小天守台は、おそらく Google マップの Earth モードで見るとよくわかる。
本丸西隅から内堀と隠し曲輪を眺めたところ:
パノラマで見るとこんな感じ:
ここからは、さらに内堀の空堀部と水堀部の境界線をみることができる:
再び本丸の中心部へ移動して天守閣を望む。白漆喰塗籠風の巨大な千鳥破風と最上層の黒漆塗と金箔押の望楼の上にある入母屋破風が目立つ:
天守閣前にはいろいろな説明板が建っていた。先ずは徳川秀忠が再築した寛永度大坂城は、太閤秀吉の大坂城の上に盛土して建てられたという説明板:
個人的に、寛永度の大坂城よりは、やはり太閤秀吉の建てた大坂城の方が好き:
そして大坂の陣400年を記念してか、こんな屏風図も:
五層八階建ての復興天守閣は、現在は地上50mから大坂の町並みを一望できる展望台の他、各階に大坂城にまつわる史料やジオラマやCGなどが豊富に展示されている[b]入場料は大人600円(当時)。:
この時は入場券購入までに30分以上待ち[c]おまけに天気雨も降っていたし。、いざ入城すると、これまた大変な行列で、展望台も人で溢れかえっていて、撮れたのは鯱だけだった:
天守閣から降りてきた後は、二の丸と大手口方面へ移動した。まずは桜門枡形の石垣と蛸石という城内一の巨石:
この先にある桜門から城内側には、本丸の正面入口を守るために石垣を枡形に囲んで多聞櫓を建てたのが、徳川秀忠による大坂城再築時のもので、ここにある巨石は城内第一位の巨石で、表面積が59.43㎡、重量は約108トン。左隅の黒くなった部分が蛸の頭に見えることから、その名ががついた。
そしてこれが桜門:
この桜門、徳川秀忠による大坂城再築時のものが明治維新の動乱によって焼失したあとは、明治20(1887)年に旧帝国陸軍が再建し現在に至る。また、左右にある塀も桜門の再建に合わせて新調されたが、こちらは戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44(1969)年に復元された。桜門の名称は太閤秀吉の大坂城から使われており、その当時二の丸に桜の馬場と呼ばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんだと云われている。但し、太閤秀吉の大坂城は、徳川寛永度の大坂城とは地形や構造がまったく違うので、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、加えて入る向きも違っていたと推測されている。
この桜門の前から空堀沿いを見ると、旧帝国陸軍の防空壕跡が見られるそうだけれど、今回行った時は草に覆われて確認できなかった:
さらに内堀に向かって建つ本丸石垣の上には銃眼らしき溝が彫られていた:
桜門を挟んで彫られた内堀は空堀:
桜門を降りて二の丸に入り、一旦、大手門と逆側へ移動して、本丸東側の内堀を眺めたところ。ちょうど水堀と空堀の境界をみることができた:
これより先の本丸東側の城攻めはお昼を摂ったあとの後半戦に回し、大手門のある西側へ足を戻すことにした。
太閤秀吉の大坂城は、織田信長を散々に苦しめた一向宗門徒の総元締めであり、各地の大名らと共闘して信長包囲網を築いた挙句、ついには信長に天皇の力を借りざるを得ない状況まで追い込んだ石山本願寺跡に建てられた。この時に、当然ながら大規模な土木工事が行われて地形的にもかなりの改造が加えられた上に、寛永度の徳川家による再築の際にも大きく手が加えられたことを考えると、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡については未だに確認できていないが、それでもこの大阪城公園のどこかにあったことは確実とのことで、こんな碑が建っていた:
そして、この碑の少し南側に現存櫓の一つ、六番櫓が建っていた:
二の丸南側の石垣の上には、二層二階でほぼ同規模の隅櫓が東から西へ一番から七番まで建っていたと云う。この櫓は東から数えて六番目にあることから、その名が付いている。上層の破風を飾る東西の縣魚《ゲギョ》の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれていたことから、創建は寛永5(1628)年であることがわかった。
これ以外の隅櫓の多くは明治維新の動乱や太平洋戦争の空襲などで焼失してしまい、この六番櫓は数少ない現存櫓となった。
さらに大手門へ向かって進んでいくと南仕切門跡が見えてくる。二の丸の西側と南側は石垣で区切らていて、その上に建っていたのが南仕切門だった。さらに、西側の石垣には太鼓櫓と呼ばれた二層の櫓が建っていた:
ここを過ぎると大手口枡形の石垣の上に建ち、二の丸への出入り口となる多聞櫓が姿を現す:
これも徳川秀忠による大坂城再築時の寛永5(1628)年に創建されたが、天明3(1783)年の落雷で全焼し、嘉永元(1848)年に再建されたものである。ここの多聞櫓は現存する多聞櫓の中でも最大規模で、高さは約14.7m、総面積は約710.25㎡にも及ぶという。
この大門をくぐる敵を真上から攻撃するために槍落としの装置が設けられていた:
こちらは大手口枡形から見た多聞櫓:
柱や門扉の全てに鉄板が貼られ、この右側には直角につながっているのが出窓を備えた続櫓である。そして、この大手口枡形では城の威容を誇示するために巨石が数多く使用されている。これは大手門を潜って正面に位置する大手見付石:
上の写真では二つの巨石が横に並んでいるのがわかる。この左が大手二番石(表面積が37.90㎡)、右が大手三番石(表面積が35.82㎡)の巨石である。これらは肥後熊本藩主加藤忠広が築き、のちに築後久留米藩主有馬豊氏が改築した:
大手口枡形の先にあるのが、城の正面に建つ大手門:
この門も徳川秀忠による大坂城再築時のもので、寛永5(1628)年に創建された。正面左右の親柱の間に屋根を載せ、親柱それぞれの背後に控柱を置き、それとの間にも屋根を載せるという、いわゆる高麗門形式を採っている。屋根は本瓦葺《ホンガワラブキ》で、扉や親柱を黒塗総鉄板張《クロヌリ・ソウテツイタバリ》となっている。さらに門の左右に接続する大手門北方塀や大手門南方塀も重要文化財に指定されている。なお、大手口枡形からみた大手門の左側の控柱の継手は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されているらしい。
そして大手門前から眺めた西外堀:
と西の丸千貫櫓。これも重要文化財:
この隅櫓は、石山本願寺が建っていた頃から存在していたそうで、織田信長の畿内軍が本願寺顕如と壮絶な戦を繰り広げていた時代に、信長はこの櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出してでも奪い取りたい櫓だ」と云わしめたという伝説が残っているらしい。
ここで腹ごなしをするために、一旦、大手口を出て西外堀沿いに北(天満橋駅付近)へ移動した:
その途中で見かけた西外堀と高石垣。この石垣の向こうは西の丸庭園で隅にある櫓は乾櫓:
そして西の丸庭園の北西隅に建つ乾櫓。大手口から京橋口までの広い範囲を見渡すことができ、実際にはL字型になっていて、南・西・北のどの方角からも望むことができたことから「三方正面の櫓」とも呼ばれた:
お昼をすませた後、先ずは上町筋近くに移築復元された豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣を見に行った:
これらは、太閤秀吉時代の石垣の一部を発見されたままの姿に復元したものらしい。慶長19(1614)年の大坂冬の陣で豊臣家と徳川家が講和した際の条件で取り壊された石垣。この石垣の隣にある建物を建てる際の発掘調査で姿を現したという。
それから再び大阪城公園へ。これは北外堀と寝屋川との間の三の丸(外曲輪)の出入り口に建っていた筋鉄門《スジガネモン》跡:
こちらも徳川秀忠による大坂城再築時のもので、二の丸の北外側に北外曲輪(いわゆる三の丸)と一緒に築かれた。門は明治維新の動乱後も残り、北外曲輪跡に建てられた大阪陸軍造兵廠の正門として使われていたが、太平洋戦争の空襲で焼失し、現在は左右の石組だけが残っている。
この後は、西外堀の高石垣を眺めながら京橋口へ移動した:
これが京橋口の土橋:
そして京橋口。大坂城西北にある虎口。北側の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる京橋が架けられていたことから、そう呼ばれるようになった:
京橋口に入ると、大手口と同様に巨石で枡形が造られていた:
京橋口枡形の正面には巨石が見える。表面積が54.17㎡にもなる城内第二位の巨石「肥後石」:
当初、その巨石の名から築城にも才のあった熊本藩初代藩主・加藤肥後守清正公が運んできたかと伝えられていたが、実は徳川家による大坂城再築時に備前岡山藩池田忠雄によって運ばれてきたもの。
京橋口枡形を抜けると本丸の西北へたどり着く。ここから内堀を挟んで眺めた昭和の復興天守閣:
ここからは本丸内堀を時計周りに東側の石垣を眺めてきた:
本丸東側は、現在は梅林になっているが、その中に片桐東市正且元《カタギリ・ヒガシイチノカミ・カツモト》の屋敷跡があったとされる市正曲輪《イチノカミ・クルワ》がある:
そしてぐるりと本丸を時計回りにまわった突き当りの二の丸には、豊臣秀吉公、秀長公、そして秀頼公を祀る豊國神社があり、そこには太閤秀吉公の銅像が建っていた:
というところで大坂城攻めは終了。豊臣秀吉が築いた大坂城と、自分の娘を秀頼に嫁がした秀忠が過去の因縁を忘れ去りたいがために太閤秀吉の大坂城を土中に埋めて、その上に新たな城を築いた、そんな深い事情が偲ばれて仕方がないという感想。実際の城よりもずっと重い歴史がある。
で、こちらは今年は2015年春に大阪出張に来た際にJR大阪城公園駅の構内で見かけた公園の大きな模型:
大坂城攻め (フォト集)
大坂城(2) (攻城記)
大坂城攻め(2) (フォト集)
正直なところ、有名な二つの時代が調和しているのではなく、「コテコテに混ぜ込めた」感じの(大坂城ではなく、もはや別の)大阪城。天守閣はいい例。いかにも欲張りな関西(大阪)人的な発想だ。天守台の落書きもそうだし。極めつけは旧帝国陸軍の大阪管区。城を壊し別のものにするわ、軍需工場を立ち並べるわ、挙句には標的になって貴重な史跡が焼失される原因を作ったり。ホント絶句。