城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2015年12月

岸和田城 − Kishiwada Castle

復興された岸和田城の天守閣は三層三階だが、本来は五層であった

大阪府岸和田市にある岸和田城はいつ、誰によって建てられたのか子細を記す古文書などは存在しておらず、伝承として建武新政期に軍神・楠木正成の一族、和田高家が岸という土地に拠点を構えたのがその始めと云われ、そこから「岸和田」と呼ばれるようになったとか。時代が中世に入ると三好義賢が改修し、織田信長が畿内を掌握した後は石山合戦の支城として、家臣の津田信張と蜂屋頼隆が在城した。豊臣秀吉の時代に入ると家臣の中村一氏を入城させて、紀州の根来寺や雑賀衆への抑えとした。一氏は紀州勢の大軍を相手に城を守りぬき、天正13(1585)年、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちし、泉州(せんしゅう)地域から根来寺勢を一掃した。それから秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、城下町と城郭の整備に当たらせた。この時に、岸和田城の天守閣が建てられたと云う。豊臣家が滅亡すると、松平(松井)康重・康映を経て、寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めた。江戸時代の岸和田城は、大坂の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たした。この時の天守閣は五層で、他の城と同様に、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が城郭普請絵図に描かれている。天守台の大きさを当時の岡山城(池田氏31万5200石)のそれと比較して換算すると、三十万石クラスの規模であったと云う。しかしながら、文政10(1827)年に落雷によって天守閣が焼失し、明治維新の動乱で櫓や門が破壊され、以後永らく再建されることはなかったが、昭和29(1954)年に鉄筋コンクリート製で三層の天守閣が復興され、昭和44(1969)年には城壁と隅櫓が再建された。

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真田幸村と大坂の陣 − Yukimura Sanada is Number One Warrior in Japan

あたかも真田丸から采配を振るっているかのような真田幸村の銅像

天下分け目の関ヶ原から十四年後の慶長19(1614)年、方広寺鐘銘事件で江戸に幕府を開いた徳川家との緊張が頂点に達していた豊臣家。内府こと徳川家康は淀君人質や大坂の国替えなど無理難渋を豊臣家に突きつけ、ついには東西手切れに傾き、その年の12月に大坂冬の陣が始まった。徳川側の兵力約20万人に対し、豊臣側はその半分の10万人程。緒戦の豊臣軍は城外に出て木津川口や鴻野・今福と言ったいくつかの砦で激戦を繰り広げたが、結局は大坂城へ撤退する。この時齢49歳の真田幸村こと真田左衛佐(さえもんのすけ)信繁は、配流先の九度山を息子の大助(幸昌)や旧臣らと共に脱出し、大坂城に入城していた。当初、幸村は進撃してくる徳川軍を近江の瀬田川辺りで迎撃し、冬の川を渡る敵軍に銃撃を浴びせ、足止めする間に寝返る大名らが出てくるだろうと主張したのに対し、淀の御方の「鶴の一声」によって難攻不落と謳われた大坂城での籠城策に決した。そこで幸村は大坂城で唯一の弱点とされていた城の南東にある玉造口(たまづくりぐち)の外に大きな出丸(真田丸)を築く。この真田丸は、まさに甲州流軍学の流れをくむ三日月形の堀と柵を備えた巨大な馬出であった。徳川側も大坂城の弱点となる、この地には前田利常、井伊直孝、松平忠直といった多くの大名を配置し、その後方には徳川家康・秀忠らの本陣を置いた。幸村は5千の兵でこれら2万の兵と対峙することになる。一方の家康は、関ヶ原の戦などで幸村の父・昌幸に散々に蹴散らされた苦い経験があることから、諸将には無闇な攻撃を自重してプレッシャーをかけてほころびが出るのを待つ戦略を言い含めていたが、真田丸と向かい合っていた前田利常ら加賀勢が真田丸からの執拗な挑発に苛立ち、ついに策略に釣られて真田丸へ押し出してきた。そして、赤備えで軍装を統一し士気を高めていた幸村ら真田丸からの一斉射撃で、大坂城攻防戦の幕が切って落とされた。

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大坂城 − Osaka Castle

大坂城の復興天守は五層八階で、徳川期と豊臣期が混ざっていた

明応5(1496)年、本願寺八世蓮如上人が四天王寺の西にある石山という小さい丘に石山御坊という一向宗の道場を開いた。この石山という地名は、はるか昔に聖徳太子が四天王寺を築くにあたって地ならしした時に出た石を集めて埋めたことが由来であるとか。そして大坂という地名は、この蓮如上人が「摂州生玉荘内大坂という在所」と書き残しているのが史料上に現れる初例だという。その後、この石山御坊は石山本願寺に昇格し、本願寺第十一世顕如光佐の時代には第六天魔王・織田信長との抗争の舞台となる。顕如が正親町(おおぎまち)天皇からの講和の勅旨(ちょくし)を受け入れて、11年間にわたる抗争に終止符を打ち、石山本願寺を退去したその跡地に、豊臣秀吉が天正11(1585)年から築城を開始し、天下人に相応しい大城郭を築きあげたのが大坂城の始まり。それからは絢爛豪華な安土桃山文化に浸り、幾度かの戦火にもまれて、ついには落城した。その後は徳川家による泰平の時代に全面再築され、幕府直轄地として西国支配の拠点になるものの、明治維新の動乱、さらには太平洋戦争の空襲などで多くの建造物を焼失した。なお、徳川家によって再築された天守閣は、江戸初期の寛永6(1629)年に落雷により焼失し、それ以来、実に300年近くも再建されることはなかった。そして戦後の昭和6(1931)年に、現在ある鉄筋コンクリート製の天守が竣工した。このような複雑な事情を持ち、今や「天守閣」の代名詞ともなっている大坂城は大阪府大阪市中央区の大阪城公園として整備されている。

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亀居城 − Kamei Castle

亀居城の本丸虎口は枡形ではなく鉤形だった

広島県大竹市にある亀居城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で功績のあった東軍で豊臣恩顧の大名の福島正則が、西軍総大将だった毛利氏を監視するために安芸国西部の西国街道(山陽道)を押さえる要地の砦跡に築いた平山城である。正則は甥の福島伯耆を城主としておき(完成を見ることなく死去し、城代を置くことになるが)、慶長8(1603)年から五年の歳月をかけて完成した城は、瀬戸内海に面し、総面積がおよそ十万㎡で、標高88mの山頂に天守を持った本丸を配置し、この他に二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸など11個の曲輪を配置して、海に面していない側は新町川や海水を導入した水堀や空堀を巡らした巨大な堅城であった。しかしながら、築城からわずか3年後の慶長16(1611)年には廃城になってしまった。その理由は、ちょうどこの時期に徳川家と豊臣家の関係が悪化し、豊臣恩顧の猛将である福島正則は幕府からの圧力が非常に厳しかった。福島正則は幕府に対して二心が無いことを示すために、素直に命令に従って破却したと云う。

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山中鹿介祈月像 − Yukimori Yamanaka Prays to Crescent Moon

「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と月に祈願する山中鹿介幸盛

山陰の麒麟児の異名を持つ山中鹿介(しかのすけ)こと、山中幸盛。「願わくば、我に七難八苦を与え給え。よくこれを克服して武士(もののふ)として大成したい。」と月山富田城から三笠山にかかった三日月に向かって祈ったというエピソードで知られ、主家の尼子家のために毛利家と戦ってきた不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を持った戦国武将である。出雲尼子家は、清貞の時代に一度没落していたが、その遺児の経久が尼子再興をかけて(月山)富田城を計略で乗っ取った際の家臣に山中勝重らの郎党がいた。もともと山中家は、没落の原因となった清貞の弟・幸久の血筋であるが、彼のお家を危うくする兄・清貞を排除しようと計画していたクーデターが露見し幽閉されてしまったのだとか。その幸久から数えて四代目の満幸に二子あり、その末弟が甚次郎こと鹿介である。虚弱体質の兄に代わって家督を継いだのは、謀聖・尼子経久の孫である晴久が頓死した年であり、永禄3(1560)年、甚次郎が十六歳の時であった。代々家に伝わる三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑(かぶと)を譲り受け「鹿介」と名を改めた。そして、生まれが八月十五日の中秋名月であることにちなんで、生涯新月を信仰するようになったと云う。鹿介が家督を継いだ時の主家は晴久の嫡男・義久が継いでいたが、わずか出雲半国をなんとか保っているという落ちぶれようだった。そして旧領復活のため毛利家と幾度と無く死闘を繰り広げ、その間に鹿介は毛利方の品川大膳との一騎討ちなどもあったが、ついに尼子家は永禄9(1566)年に毛利の軍門に降り、富田城を開城した。その後は、新宮党事件で唯一の生き残りである誠久の五男・孫四郎こと尼子勝久を主君として主家再興を誓って、時には織田信長や羽柴秀吉らの力を借りて、三度、毛利家と死闘を繰り広げるものの、最後は上月城の籠城戦で降伏・開城することになった。鹿介は勝久の助命を嘆願したが、吉川元春は許さず、士卒の命と引き換えに切腹させた。そこで鹿介は毛利家に一矢報いるために降伏したように見せかけ安芸へ連行されることになったが、その途中、備中甲部川(こうべがわ)の阿井の渡しで逆に謀殺されてしまった。享年34。

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