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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

熊本城 − Kumamoto Castle

平左衛門丸から見上げた熊本城の大天守と小天守

国の特別史跡で日本三名城の一つに数えられ、さらには築城者で肥後熊本藩初代藩主でもある加藤清正の名前と共に、知らない日本人はいないほど有名な熊本城は熊本県熊本市の中心部に建ち、その堂々たる威容を誇って現在に至っている。時は天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州を平定し、肥後を信長麾下で黒母衣衆筆頭だった佐々成政に与えたが、彼の検地に反抗した地侍連中が一揆を起こし、黒田、立花、島津の力を借りて、どうにか鎮圧したものの領地は召し上げられ、切腹の処分を受けた。その後、秀吉は肥後を二つに割って、北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に与えた。清正は佐々の居所であった隈本城に入り、行長は宇土城を居城とした。しかし、まもなく始まった朝鮮の役で前後七年間も朝鮮に渡っていたので、満足に城を手入れできずにいたが、秀吉が死去し、やっと帰国してみたら、その二年後に関ヶ原の戦が起こった。この時、清正は九州にいて徳川に大いに協力したので、主がいなくなった南半分も手に入れて、肥後一国五十二万石の主になった。そこで大大名に相応しい居城にすべく、慶長6(1601)年から、千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、慶長12(1607)年に完成させた。そして、この時に地名を隈本から熊本に改めた。「隈」の字は阜(おか)に畏(おそ)れると書くので、それでは武士の居城としてはみっともないというのが理由だった。彼は朝鮮の役で苦労し経験したこと、そして異国でみた城壁についても学んでいたので、それらを熊本城の築城に生かしたという。その結果、城郭の周囲は5.3km、面積は98万㎡、城内に大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門、120以上の井戸を備えた堅牢無比の城になった。

昨年は2014年の夏の三連休を利用して熊本県にある城を巡ってきた。その初日は念願の熊本城攻め。広島の別宅を7:00amくらいに出て、8:00amすぎの新幹線さくら541号で熊本駅に着いたのが10:00am前。そこから市電に飛び乗って、「熊本城・市役所前」に10:00am過ぎに到着できたので、そこから余裕の6時間かけて攻める予定だった。しかしながら、攻め終わって気づいたら全くと言っていいくらい時間が足りなかった。予定していた以上に見所が多く、広範囲にわたっていたのに加えて、やはり南国の暑さが体に響いて、なかなか思うように見て回ることができなかった。憧れの城だった分、がっかりしたが、見学ポイントを把握して、しっかりとした予習と余裕のある計画が必要だなぁと考えさせられた O:)。うーん、しかしながら清正公の菩提寺は訪問したかったなぁ ;(

これが事前の軽い準備で参考にした「熊本城復元予想図」:

しかし、実際に見るべきものは、これでは全く足りなかった!!

事前準備で攻略ルートを検討する際に参考にしたウェブ上の資料

 

でも、これは見るべきもののホンの一部しか載っていない。本当に見ておくべきものは、実は観光案内所で貰ったパンブレットや熊本城の案内板に書かれていた。おまけに、よく見ると未だ復元されていない建造物が書かれていたりするし :$

そんなこんなで、まずは熊本城の内堀であった坪井川に架かる行幸橋(みゆきばし)手前に鎮座している加藤清正公の銅像:

長烏帽子形兜は彼のトレードマーク

加藤清正公の銅像

現在でも「清正公(せいしょうこ)さま」と呼ばれて親しまれている肥後守清正公。幼名は虎之助。母親が羽柴秀吉の母と従姉妹ということで、一門衆がいない秀吉にはかなり可愛がられていた。そして、その恩情を死ぬまで忘れずに剛直なまでに生き抜いた武将である。齢27歳で肥後国を佐々成政から継承し、関ヶ原の戦では以前から仲の悪い小西行長の居城である宇土城と八代城を落とした。家康と秀頼の会見から三ヶ月後に亡くなる。最後の最後まで太閤に尽くした義将の一人。ちなみに、家紋の蛇の目は肥後に入国してから。それまでは桔梗紋。その昔、秀吉は四国攻めで改易となった讃岐国の尾藤知定の武具一切を清正に与えたが、そこで使用していた紋が桔梗紋だった:

改易した讃岐の尾藤知定の家紋を継承した

加藤家の家紋である桔梗紋

主に朝鮮の役から帰ってきてから使い出した家紋

もう一つの家紋、蛇の目

本丸の数寄屋丸二階御広間(すきやまる・にかい・おんひろま)には彼の甲冑(レプリカ)が展示されていた:

数寄屋丸二階御広間に展示されていた

加藤清正公甲冑写し

 

そして坪井川を挟んで城の対岸(長塀通り)から、いきなり熊本城のスケールの大きさを知らしめられた 8)。それは重要文化財となっている熊本城長塀(ながべい)。この長塀は、城の東隅にある平御櫓と西隅にある馬具櫓との間を坪井川に沿うように建てられており、全長は242m、高さは約2mの木造本瓦葺の土塀で、上部は白漆喰仕上げ、下部は下見板張りの重厚で堅固な構造をなしている。さらに、この塀は高さ約6mの石垣の上にあり、塀の北側を竹の丸と呼ぶ:

左の木の下にあるのは下馬橋跡

馬具櫓と長塀

坪井川を挟んで対面を、長塀通りというらしい

長塀と内堀であった坪井川

 

そして行幸橋から坪井川を渡り、枡形虎口を進んで櫨方門(はぜかたもん)から本丸に入城した。入城料は大人500円(当時)。これは、もともとは加藤神社の鳥居近くにあった門が昭和30(1955)年に解体され、昭和32(1957)年に、この場所に移築されたものだと云われている:

現在は熊本城への入場口の一つになっている

櫨方門

この門を抜けると、ちょうど長塀で囲まれた内側の竹の丸と呼ばれる曲輪に入る。ちなみに、熊本城の本丸は天守台、平左衛門丸(へいざえもんまる)、数寄屋丸(すきやまる)、飯田丸、西の丸、東竹の丸、そしてこの竹の丸から構成されている。

竹の丸から見上げると飯田丸の南西隅に建つ飯田丸五階櫓が見える。加藤清正の重臣の一人である飯田覚兵衛こと、飯田直景が預かっていた曲輪にあることから、この名が付いた。今回の登城ルートだけでは下にあるような風景を見ることはできないので、一気にここでまとめてしまうと:

重臣の飯田覚兵衛が預かっていた曲輪に建つ櫓

竹の丸から見た飯田丸五階櫓

外観三層内部五階の櫓で、延床面積は503㎡、石垣からの高さは14.3mで、一般的な城の天守級の規模を誇る。現在の飯田丸五階櫓は、古写真等を基に平成17(2005)年に復元された。

外観三層内部五階建ての天守級の櫓

飯田丸から見た飯田丸五階櫓

飯田丸は熊本城の南側の防衛の要になった曲輪

数寄屋丸から見た飯田丸五階櫓

飯田丸には櫓や門、はては台所や武器庫なども備えられていた

奉行丸から見た飯田丸五階櫓

 

飯田丸は熊本城の南側を防衛する要の曲輪であり、櫓と塀で囲まれ、堀もあり、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までもが備えられており、さらに曲輪の西側にある西櫓御門から外へ出撃することも可能で、まさに飯田丸だけで小さな城の機能を併せ持っていると言える。
復元された飯田丸五階櫓は木造で、古史などに従って内部も忠実に再現されている:

みごとなまでに再現された梁や柱

飯田丸五階櫓の内部

今回、訪問した時に案内して下さったボランティアの方に、普段は開けることはない櫓の一階にある入口を内部から見せてもらった。これは櫓本来の出入り口で、外から櫓へ入って階段を上がり、摺戸(すりと)を引いて入るらしい。

普段は立ち入り禁止だが、特別に開けて見せてもらえた

櫓の出入口

摺戸を引いて開けて、石段を降りて外に出る

櫓内部からみた出入口

さらに、ここで案内してもらったボランティアの方から聞いた復元時の興味深いエピソードがある。下の写真は埋木という大工さんが施す工法の一つらしく、飯田丸五階櫓の梁にあったもの。この埋木がフクロウの形をしているということで、一種のパワースポットだと教えてもらった:

工事の音で飛び去ったフクロウに申し訳ないということで埋木したとか

フクロウの埋木のある梁

その理由をすっかり忘れていたのだけれど、このブログを書くにあたって探した「九州旅倶楽部」さんの情報だと、この櫓の復元工事の音に驚いて樹齢800年もの楠に住んでいたフクロウが飛び去ってしまったそうで、その時はちょうどこのフクロウの埋木が施されている梁をあげる工事があり、フクロウが埋木されている部分がコロッと落ちてしまったらしい。大工の棟梁が、工事の音で飛び去ってしまったフクロウに申し訳ないと思い、フクロウの隠し彫りを残そうということで彫られたものだった =)

そして、この竹の丸には①北へ移動するルートと②東へ移動するルートの分岐点がある:

このまま真っ直ぐ登ると五階櫓跡や二様の石垣にお目にかかれる

分岐点のある巨大な枡形虎口の石垣

①は大天守や本丸御殿脇へ進むルートで、ここには幾重もの大規模な枡形虎口が続き、かなり圧巻である。ちなみに、この枡形虎口から石垣越しに見た大天守はこんな感じ:

このまま大天守の方面へ進んでいくルートもある

竹の丸から見た大天守

なお今回は②のルートから、ちょうど本丸を反時計回りにまわる感じで攻めることにした。
ということで、竹の丸を東へ進んで須戸口門(すどぐちもん)まで進んだ。ここは長塀の東隅にあたる場所で、そこには平御櫓(ひらおんやぐら)とその石垣がある:

左側にあるのは長塀,右にあるのが須戸口門

須戸口に建つ平御櫓

須戸口門が突破されたら、この石段を崩して侵入を防ぐらしい

平御櫓の石垣と登り石段

 

平御櫓は、長塀の防御線を一段高い位置から援護する役目を持ち、須戸口門から侵入した敵を東竹の丸戸の連携で挟み撃ちするための櫓である。そして、平御櫓の石垣に登るための石段は、敵が須戸口門を突破した時に、この石段を崩して侵入を防ぎ、敵中で孤立しても最後まで戦えるように作られているらしい。

ということで、平御櫓と連携する東竹の丸の櫓と高石垣を見るために須戸口から北へ移動する。東竹の丸には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されている。竹の丸のある南から田子櫓(たごやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)、源乃進櫓(げんのしんやぐら)、少し間を置いて東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)、五間櫓(ごけんやぐら)、不開門(あかずのもん)、平櫓(ひらやぐら)と続く。このうち、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源乃進櫓を高石垣の下から見上げて見てきた:

東竹の丸に連なる櫓の一つ

田子櫓

西南戦争の焼失を免れ現存する櫓

七間櫓、十四間櫓、四間櫓

東竹の丸に連なる櫓を支える高石垣

四間櫓、源乃進櫓

四間櫓の石落としを見上げたところ

七間櫓、四間櫓、源之進櫓

多聞櫓ではなく、櫓が連なっているのが特徴の東竹の丸

十四間櫓、四間櫓、源之進櫓

見事な高石垣

十四間櫓、四間櫓

 

高石垣の上で連なる櫓を横目に、東竹の丸を進んでいき、東十八間櫓から続いている枡形虎口を通って天守台がる方面へ向かう。ご覧のとおり、この枡形に一度入ると四方から攻撃されることは覚悟しなければならない :O

正面は東十八間櫓

本丸東側の枡形虎口石垣

熊本城築城時の石垣

東竹の丸の石垣

 

枡形虎口を上ったところには、先ほど見上げた重要文化財の櫓が建つ曲輪にたどり着く。そして、ここには城の鬼門である丑寅(東北)の方角に建つ不開門(あかずのもん)がある。この方角は不浄の気が出入りするところと考えられており、塞いでも開け放ってもいけないとされ、門は造るが通常は閉鎖されていた。そこから不開門と呼ばれるようになり、死人や不浄物の搬出時にだけ使われたという:

昭和8(1933)年に国宝となり、戦後には重要文化財になった不開門

不開門

この門は、両側の石垣の上に櫓を渡し架けて、その下が門になった典型的な櫓門であり、城の要衝に配置されていた。熊本城内には18個の櫓門が作られていたが、江戸時代そのままに現存するのは、この不開門だけになっている。国宝で、重要文化財。
そして、これは不開門への坂道から侵入する敵に備えて建てられた平櫓:

焼失をまぬがれた13個の建造物の一つで、重要文化財

平櫓

そして、本丸御殿の下に造られた闇り通路(くらがりつうろ)へ続く路。実際は、東側にあるこちらが出口で、天守台側にあるのが入口らしい。そして、ここから振り返って見た長局櫓:

本丸東側にある出口

闇り通路出入口

現在は休憩所になっている

そこから振り返って見た長局櫓

 

本丸御殿は二つの石垣をまたぐように建てられていたため、その石垣の間が一種の地下通路となっていた。実際には、御殿への正式な入口に相当し、闇り通路と呼ばれている。このような地下通路を持つ御殿などの建築物は全国的にも例がないとのこと 8)。ちなみに、これが天守台側にある闇り通路の入口:

本丸御殿が二つの石垣にまたがって建てられている

闇り通路入口(西本丸側)

加藤家時代の石垣で野面積み

本丸御殿広場の石垣

そして、闇り通路をくぐって、天守閣がある天守台に入った:

左にある芝生は御裏台所跡

茶臼山の最高所に建つ大天守と小天守

大天守は石垣の上から高さ約29.5m、外観三層の内部六階で地下一階。鯱の大きさは約1.2m:

三層六階、地下一階で高さは約30m

大天守

小天守は石垣の高さから約19m、外観二層の内部四階で地下一階。鯱の大きさは約0.9m。大天守が出来上がった後に増築されたもので、景観を考慮して西側にズレている:

外観二層、内部四階、地下一階

小天守

大天守からみても中心がずれて建てられているのがわかる

大天守からみた小天守

 

大天守の天守台から小天守の天守台を眺めたところ。大天守は、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗り、どっしりとした印象を与えている:

手前から大天守、連結部、子天守

天守台の石垣

現在の天守閣は、昭和35(1960)年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもので、天守閣内部は熊本博物館分館になっており、歴代藩主や西南戦争関連の資料が展示されている。最上階は展望台になっており、熊本市内や、遠くは阿蘇の山並みを眺めることができる。
大天守の展望台から二の丸、三の丸のある西方面の眺め。手前には宇土櫓(うとやぐら)、木陰に隠れて少しだけ戌亥櫓(いぬいやぐら)、そして長塀が見える。ちなみに右奥方面には加藤清正公の菩提寺である本妙寺がある:

正面に見えるのは金剛山

展望台からの眺め

こちらは、ややかすんでいるけれど阿蘇の山並み:

空気が澄んでいるとはっきりとみえるらしい

大天守からみた阿蘇の山並み

なお、大天守の四面には優雅に反りが入った千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)を据えている。また、大小天守ともに最上階の望楼は建物の中に設けられており、これは中世後期の慶長の時代の特徴と云われている:

二層と三層は千鳥破風、南北の一層目は唐破風

四面に優雅な破風を持つ大天守

この大天守の石垣からはみ出ているものが張出造り(はりだしづくり)で、はみ出している部分に付いている板を外すと石落としになる:

張出造は外観を優雅に見せる他に、武器にもなる

三層六階の大天守を見上げる

天守閣の石垣。もちろん注意書きあり。
大小天守の石垣の曲線を比較すると、小天守の方が急な角度で立ち上がるように積まれている。両者の隅石(石垣の角にある石)を比較すると、大天守が同じ位の大きさを持つ石を積んでいるのに対し、小天守は長方形の石を交互に積んでいるのがわかる。これは算木積み(さいぎづみ)といわれる工法で、より急角度の石垣を積むことができる:

石垣には登らないで下さい

天守台の石垣側に建つ注意書き

大小天守で石垣の積み方が異なる

奥でそびえ建つ石垣が小天守のもので、手前が大天守の石垣

 

こちらは本丸御殿。加藤清正によって創建され、行政の場、歴代の肥後藩主の対面所(会見の場)として使われてきた。明治10(1877)年の西南戦争で焼失したが、平成15(2003)年から平成20(2008)年の復元工事で蘇った:

昭君之間、大広間、若松之間などが復元されている

本丸御殿

これは、天守台の隣の数寄屋丸に復元された書院造りの数寄屋丸二階御広間。二階にある広間では茶会や能、連歌などが催され、来客時の接待などにも使われる一方、南側には狭間や石落としが備え付けられており、往時は数寄屋丸五階櫓が建っていたので、実戦にも十分利用できる建築物だった:

接客用として利用した一方で、五階建ての櫓を備えていた

数寄屋丸二階御広間

そして、こちらは天守台そばに建つ五郎の首掛石。
天正17(1589)年に天草の地侍らが関白秀吉に叛旗を翻した天草一揆の時、小西行長の援軍としてやってきた清正は、敵方の志岐麟仙に味方した勇将木山弾正と仏木坂で一騎打ちを行った。弾正は武運つたなく戦死したが、彼の遺子である横田五郎は成人したのち清正を仇として狙うために築城人夫として潜り込み、その機会をうかがっていたが、そのうちに素性が見破られ井戸掘り中に生き埋めにされたという。この石は重さが1800㎏あるが、築城当時に五郎が首に掛て運んだものと言い伝えられている:

重さ1800㎏の石を首に掛けて運んでいたと云う

五郎の首掛石

そして、これが宇土櫓。西南戦争後にも焼け残った唯一の多層櫓。本丸の西北隅にあり、20mの高石垣の上に建つ。国指定重要文化財:

当初は宇土城からの移築と云われたが、実際には熊本城のもの

第三の天守ともいうべき宇土櫓

外観は三層五階、内部は五階、地下一階で、第三の天守とも云われている宇土櫓。直線的な破風と望楼に廻縁勾欄をめぐらした建築様式の慶長年間(1596〜1614年)の建物であり、内部の木材には手斧で削った跡が残されている。

屋根に乗っている鯱は昭和2(1927)年に陸軍が解体修理した際に取り付けたもの

平左衛門丸から見た宇土櫓

宇土櫓の西側と北側は深い空堀の底から石垣を積み上げているため、その姿が際立って高くそびえ立つ印象を与えている:

宇土櫓横にある加藤神社前から

宇土櫓とそれに接続している続櫓、その後方には小天守と大天守

古くから宇土櫓は、その呼び名から小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられていたが、現代の解体修理の調査などから、熊本城内で創建された櫓であることが判明している。屋根瓦は全部で46,000枚にも達し、その中には四百年の歳月に耐えた加藤家家紋の桔梗紋を持つ瓦も残っている。現在公開されている宇土櫓は、昭和60(1990)年から五年かけて修理したもの。

宇土櫓は、櫓部分から廊下が延びて続櫓に接続しているが、奇妙なことに斜めに沈んでいるがわかる。これは、双方の櫓の石垣の高さが微妙に異なり、つないで廊下を渡した時に職人がうまく高低差の帳尻を合わせた名残だとか:

廊下部分が斜めに沈んでいる

宇土櫓の反対に側にある続櫓と廊下

廊下部分が斜めに沈んでいる

頬当御門付近からみた宇土櫓と廊下、続櫓

 

宇土櫓を堪能した後は、熊本城の正面玄関にあたる頬当御門(ほおあてごもん)から西出丸方面に向かった。この門は、城を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑(かっちゅう)の部品の頬当てに見えることから、そう呼ばれるようになったと云われている。

頬当御門を出て南坂を渡ったところにあるのが西出丸。西出丸には熊本城の本丸前面を防御するために西と南と北の三つの大手門があり、現在復元されているのは南大手御門と西大手御門。
これは南大手御門の枡形。三つある大手門の中で最大級の門。城の南から登城する際は、下馬橋(現在の行幸橋)を渡り、南坂(現在の行幸坂)を登って、この門から本丸へ入った:

熊本城の前面を護る門の中で最大の大手門

南大手御門

そして、南大手櫓門を出ると南坂(現在の行幸坂)がある。この多門櫓のうしろには奉行丸がある。奉行丸の奥に見えるのは未申櫓(ひつじさるやぐら):

今は行幸坂(みゆきざか)と呼ぶ

江戸時代には南坂と呼ばれていた藩士の登城路

加藤家の改易後に入国した細川家が奉行所を置いた曲輪

奉行丸

 

これは西大手櫓門。西出丸にある三つの大手門のうち、最も格式の高い門:

木造で、二階建て、入母屋造りの本瓦葺

台風で倒壊したものを再び復元した西大手櫓門

西出丸を囲む長塀と戌亥櫓(いぬいやぐら)、そして逆側の奉行丸を囲む長塀と未申櫓(ひつじさるやぐら):

明治時代に熊本城に鎮台が置かれた際に、陸軍がこの石垣を撤去した

西大手櫓門から二の丸方面へ出てすぐの堀と戌亥櫓

明治時代に熊本城に鎮台が置かれた際に、陸軍がこの石垣を撤去した

西大手櫓門から二の丸方面へ出て奉行丸と未申櫓方面

 

熊本城の東側は急峻な崖と高石垣をめぐらして防備している一方で、なだらかな斜面が続く西側が城の弱点と云われている。そこで清正は西に二重の空堀を巡らせ、空堀の間に出丸を築いた。この西出丸をみた清正は「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」と豪語したと云う。

そして、西出丸の一角に佇む加藤神社の鳥居。明治4(1871)年の神仏分離令により、本妙寺から移されて、熊本城内の宇土櫓前に創建された神社である:

主祭神は加藤清正公

加藤神社の鳥居

で、ここで初日の熊本城攻めは終了し、最終日に帰りの新幹線までの合間を使って再び熊本城攻めして、攻めていなかった竹の丸の分岐点から進む①ルートを登ってきた。

これらは竹の丸枡形虎口の石垣。幾重にも大きな枡形虎口が連続していた:

竹の丸から本丸御殿脇に至る登城道

枡形虎口石垣

竹の丸から本丸御殿脇に至る登城道

枡形虎口石垣

竹の丸から本丸御殿脇に至る登城道

枡形虎口石垣

これは五階櫓跡。熊本城の本丸南西側は、もともと高い崖であったので、清正はここを高石垣で築き上げた。そこで竹の丸から飯田丸への通路も、標高差が大きいため、二重に折り曲げた虎口として設計された。その二重の虎口中央に設けられたのがこの石垣と櫓で、他の部分と繋がっていないため、独立櫓とも呼ばれていた:

城の南西部を護る独立櫓

五階櫓跡

そして、これが本丸御殿脇の手前にある二様の石垣。ここでは、武者返しと呼ばれる石垣の隅部の反り(勾配)が異なる積み方をしている石垣を同時に見ることができる:

加藤家時代(右)と細川家時代(左)の二つの積み方が異なる石垣

二様の石垣

右が加藤清正築城時のゆるやかな石垣角、左が細川家時代の急勾配の石垣角。熊本城の石垣は「清正流石組」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配である。清正が近江国から率いてきた石工集団の「穴太衆(あのうしゅう)」が持つ特殊技術を駆使して造られたと云われ、下は30度ほどとゆるやかながら、上に向かうに従って角度がきつくなり、天端では75度の絶壁になる。細川家時代になると、さらに算木積みの技術が向上し、出隅部に長いしを交互に積んでいくことで、さらに勾配を大きくし、直線的ではなく、やや反りを持たせるという究極の武者返し実現することができたと云われている。

この後は飯田丸と飯田丸五階櫓を堪能した。なお、飯田丸の北にある西櫓御門跡は、ご覧のとおり復元工事中で入ることは出きず、櫓門も撤去されていた:

現在復元中のため櫓門はない

西櫓御門跡

西櫓御門は、南坂から飯田丸に入る城門で、本来の形は不開門と同じ櫓門形式であった。明治10(1877)年の西南戦争による当時の弾痕も残っているそうだ。

西櫓御門から飯田丸に沿ってその東に備前堀がある。加藤家の時代に、前の国主だった佐々成政の一門、佐々備前がこの近くに住み、彼の屋敷を備前屋敷と称したことから、このような名前で呼ばれているそうだ:

熊本城で唯一の水堀

備前堀

以上で、人生初の熊本城攻めは終了。いままでの城攻めの中で一番見所が多かった。一応、事前にルートを確認しておいたのだけれど、やっぱり時間が足りなかったし、完全に見落としていた見所もあった。まぁ、正直なところ一日ぐらいで全てを見て回るのはかなり難しいので、また次回なにかの復元のタイミングで攻めてみる予定 ;) width=。さらに撮った写真もかなりの数になって整理が大変だった ;(。とはいえ、全ての写真にコメントを入れたので是非、フォト集もどうぞ。

See Also熊本城攻め (フォト集)

7 Comments

  1. とうとう念願の名城に登城してきた。高石垣+縄張り+櫓と天守閣の組み合わせ= *最強* 。6時間ぶっ通しで見て回ったんだけど、その価値は大いにあり。市電駅から長塀、櫨方門、須戸口門、不開門を経由して大天守・小天守、そして宇土櫓、それから外へ出て西と南の大手門を見てきた。が、そこで飯田丸櫓を見るのを忘れていたことに気づいたんだけど、そんなルートあったかなぁと。それぐらい縄張りが複雑だったとうことか。

  2. 最終日は長崎から戻り、熊本港からバスに乗って熊本駅に戻るところを降り損ねて終点の熊本交通センターまで行ってしまい、帰りの新幹線まで時間があったので初日に見忘れた飯田丸五階櫓へ。
    櫨方門→竹の丸から登って行き、二様の石垣を経由して梅園脇にある工事現場の横を通り抜けて到着。なぜか来客は自分一人だけでひと通り見て回ったあとに、案内係のおじさんにいろいろ貴重なお話を聞くことができ、これまた意気投合して、なんと普通は見せていない櫓の玄関に通じる階段を開けて見せてくれた (興奮して手ブレが・・・)。あと、柱にもパワースポットがあるということでフクロウの紋を教えてもらった。9月には本丸御殿と現在復元中の馬具櫓のお披露目が控えているらしいとのこと。実戦でも証明された難攻不落の城は *何度みてもホント美しい* 。
    # 蒲生氏郷が築城した会津若松城も同じく。

  3. うーむ。2016年4月13日に熊本を揺るがした震度7のEarth Shakingは熊本城にも被害が及んだ。ただ瓦はもともと固定せずに、地震などで揺れて落ちるようにして屋根を軽くすることで倒壊を防ぐ仕組みになっていたようで先人たちの知恵の素晴らしさに改めて感動した。さらに清正公様が造った石垣は一片も崩れていないとか。見事としか言えまい。

  4. 熊本城の修復再建のためにここで寄付した。俺が生きている間にもう一度、お目にかかりたい。

  5. せっかくなので復興城主になった。

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