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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

島原城 − Shimabara Castle

南東側から見た島原城の天守閣と巽櫓、そして屏風折れ高石垣
長崎県島原市にある島原城が建つ地はかっては森岳(または四壁山)と呼ばれ、肥前国大名の有馬晴信が本陣を構えて龍造寺隆信の軍を撃破した場所である。元和12(1616)年には、大和国の五条(奈良県)から入封した松倉重政が、ここに島原城を築いた。重政は、筒井家家老で島左近と共に松倉右近と呼ばれた松倉右近太夫重信の嫡男である。着工から4ないし7年の歳月を経て完成した。築城と同時に城下町の整備も行い、それまでの居所であった日之江・原城を廃城とした。島原城は、南北に本丸と二の丸と三の丸が並ぶ典型的な連格式平城で、外郭は周囲約4kmの塀を長方形に巡らし矢狭間を設け、7個の城門、33個の平櫓を配置した。内郭は堀で囲まれた本丸と二の丸を配置し、その北には藩主の居館である三の丸が設けられた。また、本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込め式で五層の天守閣をはじめ、隅櫓として3箇所に三層櫓がそびえ立つという四万石の新興大名にしては過分にして、豪壮堅固な城構えだった。築城時の過酷な夫役(ぶやく)と重税、そして前代の有馬氏は切支丹大名で布教活動も盛んだったのに対し、時代が禁教令へと変わったことも加えて、松倉氏の厳しい切支丹弾圧の結果、重政の嫡男勝家の時代、寛永14(1637)年に島原の乱が起こったことでも有名である。

昨年は2014年の夏の三連休を利用した城攻め最終日は、熊本港からフェリーに乗って島原へ上陸して島原城を攻めてきた。ホテルをチェックアウトして熊本駅前から熊本港行きのバスに乗ったのが8:42am。そして熊本港へは9:00am過ぎに到着。熊本フェリーのオーシャンアロー号に乗船して熊本港発9:25am、島原外港着10:15amの50分ほどの船旅。熊本と島原往復で2500円(当時)だった。島原外港からは島原鉄道で、雲のかかった雲仙普賢岳を横目に島原駅まで15分。最終日の午前中を利用した城攻めのため、二時間というタイトなスケジュールだけれども、島原駅を出てR251を渡ると島原城は目の前にある:

島原鉄道の島原駅から徒歩5分くらいで天守閣が見えてくる

R251沿いから見た島原城の天守閣

現在の島原城は、明治維新で廃城になって払い下げされたり解体された後、島原市民の長年の夢がかなって昭和39(1964)年に天守閣が復元されるなどして、本丸と二の丸、三の丸跡には武家屋敷などが復元されているのを見学できるようになっている:

現在は本丸と二の丸の石垣が残り、復元された天守閣がある

島原城の由来と現在の縄張図

島原駅方面から商店街を抜けて坂を登って行くと、本丸の東側堀に突き当たる(上の写真の縄張図だと本丸の上部分)。ここから見た丑寅櫓(うしとらやぐら)と本丸東側堀:

現在は西望記念館として島原出身の芸術家の作品が展示されいる

本丸東側に建つ丑寅三重櫓

最初に種明かしをしてしまうと、残念ながら島原城は内郭の石垣だけが見所だと思っている :O。本丸はほぼ半分が駐車場になっているし、二の丸との連結部分はゲートボール場になっているし :/。ということで、今回の城攻めはほぼ石垣見物がメインになってしまった。とはいえ、流石に日本百名城(91)を拝命しているだけあって高石垣は見事だったけど 0:)

本丸東側から南側の大手門跡からみた天守と巽櫓(たつみやぐら):

すでに大手門跡さえもなかったけれども

大手門跡あたりから見た巽三重櫓と天守閣

「抹茶色」した水堀には蓮がたくさん茂っていた

巽三重櫓と本丸東側の堀

 

蓮の茂った水堀と折の入った高石垣

巽三重櫓と本丸東側の堀

大手門跡の前を通りすぎると、見る角度によって本丸の南東側から見た石垣は幻想的だった。島原城の内郭の一部は、幾重にも折れがある高石垣が建てられており、大手口方面の防御の要となっていたと云われている:

石垣が幾重にも折れており、大手口の防御の要となっている

本丸の南東隅から見た屏風折れ石垣

本丸に建つ天守閣と巽櫓

屏風折れの本丸石垣

高石垣の上に建つのは巽櫓

屏風折れ本丸石垣

巽櫓の内部は西望博物館

高石垣の上には矢狭間付きの瓦葺白壁塀が連なっている

屏風折れした見事な石垣を見ながら本丸の西側へ進んでいく。堀から15m上に矢狭間を持つ瓦葺白壁塀が連なる高石垣である:

石垣の上には矢狭間を持つ瓦葺白壁塀が再現されている

本丸南側の堀と高石垣(普通)

石垣の上には矢狭間を持つ瓦葺白壁塀が再現されている

本丸南側の堀と高石垣(屏風折れ)

 

本丸南西隅の高石垣は緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立ち、築後390年経つがびくともしないという:

この先の石垣は屏風折れしている

本丸南側の堀と高石垣

反りの入った見事な高石垣

本丸南側の堀と高石垣

左に見えるのは現在の本丸登城口で、当時は二の丸から廊下橋を通る経路のみ

本丸南側の堀と高石垣

緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立つ高石垣

本丸南側の堀と高石垣

島原城の南西隅には本丸への登城口があった。ほぼ自動車専用だったけれど :|。但し、本来の登城口は二の丸と本丸の間に架かっている廊下橋を通る経路のみである:

本来はここには登城口は存在していない

本丸西側の登城口(左から)

本来はここには登城口は存在していない

本丸西側の登城口(右から)

この時は天守閣復元50周年の幟が建っていた

本丸西側の登城口(正面から)

本丸西側に建つ西の櫓を見つつ登城口から本丸に入ると天守閣が見えてくるが、その周囲は駐車場という、ちょっと驚いてしまう光景だった :D。特に観光バスなんかは完全に不釣り合いだねぇ:

写っていないけれど、天守閣の周りは駐車場だった

天守閣(中は切支丹資料館)

往時(1626年)の天守は独立式層塔型四層五階であったが、復元された天守は破風なしの独立式層塔型五層五階で、本丸の中央に建っている。現在の天守閣は切支丹資料館になっており、かなり貴重な資料が展示されているそうだが、時間もないし入場料540円(当時)もあり、今回は見送った。
本丸からは、天守閣の他に丑寅三層櫓(中は民具資料館)、御馬見所(おんうまみしょ)、古野梅園、巽三層櫓(中は北村西望記念館)、西の櫓(中は日本名城画展示室)に入ることができる。さらに、本来の登城口である二の丸と連結する廊下橋があるのだけれど、今回はどこにあるのか分からずじまいだった。

これが全国の名城画を展示している西の櫓:

全国の名城画などが展示されている

本丸西隅に建つ西の櫓

本丸の広さは、なんと名古屋城のそれに匹敵するらしいけれど、残念かな、そのほとんどが駐車場だった。同じく本丸にある観光復興記念館では雲仙普賢岳の噴火の写真が展示されている他、売店などもあり一休みした。

本丸中から矢狭間のある白壁塀越しに見た東側の眺望で、その真ん中あたりにある櫓のような建物が島原鉄道の島原駅:

この先は島原湾

白壁塀越しにみた本丸東側の眺望

櫓っぽい形をしている、いかにも観光の町という感じ

こちらが島原駅の駅舎

 

それから再び西側の登城口から本丸を出て、二の丸方面へ移動した。これが二の丸の石垣:

左が二の丸、右が本丸

二の丸と本丸の接合部の石垣

石垣の上にあるのは島原文化会館

二の丸の石垣

 

二の丸と本丸の間にはゲートボール場があった :D

二の丸と本丸の間にあるゲートボール場

ゲートボール場

そして、これが本丸と二の丸をつなぐ廊下橋。往時は、ここが本丸への唯一の登城道になるが、二の丸まで攻め込まれると本丸は「袋の鼠」状態になる上に、廊下橋はその外側から攻撃できないことが欠点になっている:

現在は、ここ以外にも登城口がある

廊下橋跡

こんな感じでぐるりと二の丸をまわって、元来た本丸東まで歩いた。それから次の電車まで時間があったので、島原駅近くの「ラーメンセンター駅前店」で長崎ちゃんぽんを食べた。味はあまり覚えていないので不味くもなく、かといって美味しかった記憶も無いなぁ :P
時間があれば三の丸跡にある武家屋敷や寺町界隈も散策したかったけど残念。

See Also島原城攻め (フォト集)

1 個のコメント

  1. 天守閣の側が駐車場の他に、高石垣と水堀・空堀の高低差が目立つ壮大さを持つのだけど、ところどころに電線が引いてあって何とかならんかと思ったり。
    やはり重政とその子勝家とが築城にあたり苛政と搾取により島原の乱が起こったことで有名か。とはいえ、一揆軍の猛攻を凌ぎ、後の大地震や大津波にも耐えた難攻不落の城ではある。

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