現在の八代城は、元和元(1615)年に幕府より発布された一国一城令ののちも、熊本城とともに肥後一国を二城体制で維持することが特別に許された城である。熊本県八代市にあるこの城の特例が認められたのは、おそらく薩摩の島津家を牽制するためだと云われている。当時は熊本城と、麦島城(関白秀吉から肥後南半国を与えられた小西行長が築城した城)の二城体制であったが、元和5(1619)年の大地震により麦島城が倒壊したため、当時の熊本藩主であった加藤忠広が幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕(とくぶち)にある津の北側に城を再建し、同8(1622)年に竣工した。これが現在の八代城である。寛永9(1632)年に加藤家が改易になり、豊前国小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父である細川三斎(忠興)が隠居城として、この八代城に入城した。
明治3(1870)年に八代城は廃城となり、同13(1880)年には八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良(かねよし)親王顕彰(けんしょう)のために本丸に八代宮を設置することとなり、同16(1883)年に社殿が落成した。その際は、本丸の南側にある石垣部分を開いて参道を設けたという。八代城は、八代市の中心的な歴史公園として、今もなお親しまれている。
昨年は2014年の夏の三連休を利用した熊本県の城攻め、二日目は午前中に攻めた人吉城のあと、お昼を人吉市内で済ませてから、人吉駅を1:30pmに出発するJR九州横断特急6号に乗って球磨川を下り、八代駅に着いたのが2:30pmすぎ。ここで駅構内の観光案内所で八代城までのバスと時刻表について教えてもらい、すかさず2:50pmの市バス(100円)に乗りこんで八代市役所前に到着したのが3:00pm。バス停の隣が八代市役所で、その目の前がもう八代城本丸であり、本丸東側にある水堀と高石垣が飛び込んできた。
これが本丸東側(八代市役所の目の前にある)枡形虎口と水堀で、江戸時代は大手門に相当する本丸の入口だった:
この日は暑かったので水堀の中では光合成が行われて完全に「抹茶色」だった。あと、水堀の上には鷺がいた:
この虎口は表枡形門の一ノ門があったところであり、「高麗門」または「欄干橋門」と呼ばれていた。実際の欄干橋は木造の太鼓橋だったが、現在はコンクリート製の模擬になっている:
この橋の欄干には、八代城こと松江城が完成した「元和八年」(1622年)の年号が刻まれた擬宝珠(ぎぼし)が残っており、築城当時の遺品として貴重なものになっている。そして、これが一ノ門跡に残る石垣。この枡形門は四方を石垣で囲んで前後二箇所に門を建てていた:
これが表枡形門を囲っていた石垣:
この枡形門を通り抜けて、この枡形を右へ折れ:
高麗門は、寛永9(1632)年に加藤家が改易された後に、八代城に入った細川三斎(忠興)が加藤氏のゆかりの本成寺に奉賽(ほうさい)し、現在も同寺の山門として現存(再建)しているらしい。
これが二ノ門の頬当門跡の石垣:
この石垣の石には番号や記号が刻まれたものや、石割りの跡が残っているなど、石積に携わった人達の労苦を偲ばせるものが現在も残っている:
二ノ門を進んで本丸の南東隅へ進んでいくと、本丸庭園跡があり、現在はなぜか土俵が設置されていた:
本丸庭園跡には、江戸時代には政務を司る本丸御殿が建てられていた。大書院の南側には立派な石組で滝を表した枯山水(かれさんすい)の庭園跡が残っている。
本丸御殿を囲むように建つ南東隅の高石垣の上には磨櫓(みがきやぐら)跡がある。この櫓は、高麗門の南に建てられ、、東西四間、南北七間を測り、本瓦葺の入母屋造りの屋根を持つ平櫓だった:
そして磨櫓跡から見た塀跡。ここには長さ十六間の総白塗込めの塀があった:
塀跡をさらに南東へ進んだところには宝形櫓(ほうぎょうやぐら)跡がある。方形櫓とも云う、この櫓は二階建てで、一階は四間四方、二階は三間四方の広さを持っていた。この櫓の二階は仏殿になっていたらしい:
宝形櫓跡から堀沿いに東へ移動していくと舞台脇の櫓跡がある。この櫓は梁間四間、桁行九間の建物で、再建後は桁行十二間となったため、十二間櫓とも呼ばれる。本瓦葺、入母屋造りの屋根を持ち、二層二階の櫓だった。そして、この櫓と宝形櫓の間には梁間三間、桁行三十間の三十間櫓と呼ばれる平櫓が建っていた:
これは本丸南側の石垣で、この下には八代宮の参道がある。八代城の築城時は石垣で囲まれていたが、明治16(1883)年に本丸中央の大書院跡に建てられた八代宮へ参拝するために一部の石垣を崩して作ったもの:
これは本丸南西隅に建っていた月見櫓跡。二階建ての櫓だった:
細川三斎(忠興)が再興した妙見祭では、獅子舞や笠鉾を城内に入れ、城主はこの月見櫓から見物するのが恒例だった。そして、この月見櫓跡から小天守に向かう堀沿いの石垣には、石落としを持つ三十八間の長塀があった:
小天守へ入る入口:
大天守(おおてんしゅ)台の南で連結されているのが小天守台で、麦島城も同じ構造だった。小天守は東西九間、南北四間半を測る外観二層、内観三階(地階部分を含む)だった。
大天守との連結部には渡櫓と渡廊下が建てられていた。当時は、大天守下之平場から石段を登り小天守の地階に入って、渡櫓を通り大天守の地階へと通じていた:
大天守入口と大天守台の地階、そして大天守跡:
大天守は東西十間、南北十一間を測る外観五層、内観六階(地階部分を含む)の建物だった。築城から53年後の寛文12(1672)年2月19日の落雷により焼失したが、それ後は再建していない。
この大天守台の石垣には麦島上の石が使われていたと云う:
大天守跡から小天守跡をみたところ。現在は、大天守下之平場から登るために用意されていた石段が無くなっている:
これは唐人櫓跡。この櫓は大天守の東側に位置し、東西四間、南北三間を測る平櫓だった:
埋御門(うずみごもん)は本丸から北の丸へ通じる裏枡形門の二ノ門で、この先には、本丸の搦手口裏枡形門の一ノ門である廊下橋門が建っていた:
そして、最後に堀の外周を歩いて見てきた天守台の石垣たち:
細川三斎忠興公と織田右府公の供養塔
八代城攻めの後は、県道250号線を渡り、八代城の北の丸に建つ松井神社をさらに進んで、八代市立第一中学校の校庭の側に、かつて細川幽斎(藤孝)の菩提寺の泰勝院があり、正保2(1645)年、八代で亡くなった細川三斎(忠興)が荼毘に付された場所でもある:
ここ八代は細川家ゆかりの地でもある。肥後熊本藩の加藤家は二代目の忠広の時に没落し、そのあとは寛永9(1632)年に豊前国小倉城の城主でった細川家が入国した。当時の細川家当主は忠利で、彼の入城後半月ほどして、父の三斎が自分の隠居城である八代城に入った。八代は薩摩国が近く、幕府に危険がられている島津家の国なので、三斎はここを自分の居城としたのであろう。「万が一の時には、若造の忠利では手に負えまい」と考えたからだと云う。三斎は、父に武士ながら第一流の文化人である幽斎を持ち、自らも利休七哲の一人として三斎流と呼ばれる茶道の祖になったほどの文化人である。
さらに、この場所は三斎が生涯追慕した織田信長の菩提寺・泰巌寺となり、現在でも三斎が建てた信長供養の五輪塔が残っている:
泰巌寺と云う名前は、織田信長の法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんでおり、この泰巌寺には、小倉時代に造られた信長供養の梵鐘と、八代に移ってから建てた五輪塔と灯籠があったが、明治時代に廃寺となった後は、梵鐘は光圓寺(通町)に、本堂は浄沢寺(古閑中町)へ譲られ、それぞれ現存しているという。
八代城攻め (フォト集)
築城は小西行長。関ヶ原の戦では主が出はっていたため弟の行景が城代となり、宇土城と連携し加藤清正軍を迎え撃つも西軍が大敗したことで、家臣助命と引き換えに開城し切腹する。別名は、石垣に石灰岩を使用したところから白鷺城と言われ、水堀には鷺がいた。この暑さで、 *堀の水は抹茶状態* だったけど。