島根県安来(やすぎ)市広瀬町の月山(がっさん)という一帯にある富田城(総じて月山富田城)の始まりは古く、12世紀後半に征夷大将軍の源頼朝が出雲の守護として任命した佐々木義清の築城と伝えられている。その後は山名家、そして応仁の乱の後は再び佐々木家(京極家)が治めるようになり、佐々木持久・清貞親子が守護代として着任したが、この清貞が勝手し放題の暴君で、主家の京極家と対立し戦になったものの、人望のない清貞は味方に見限られて逃亡してしまう。そして京極家は出雲の豪族を守護代として富田城を任せることにした。一方、逃亡した清貞には経久・久幸という二子がいたが、父が追い出された時はまだ幼少のため、家臣に守られて隠れ住んでいた。そして経久が成人し、文明6(1486)年に旧臣らと共に富田城奪還を計り、これを成功させた。それから、次々に国内の豪族を打ち従えて、出雲一国を回復したという。この時、経久29歳。それから、最盛期には出雲を含め、因幡・伯耆・石見(いわみ)・隠岐・播磨・美作(みまさか)・備前・備中・備後・安芸の山陰・山陽十一カ国を制した。この時、後に尼子家最大の敵で、ついには尼子を滅ぼすことになる毛利元就も幕閣に加わっていた。謀聖・尼子経久は84歳の長寿を保ち、家督を孫の晴久に譲って天保10(1541)年に亡くなる。そして永禄8(1565)年に、尼子家から離反した毛利元就に攻められるも、強固な富田城に一年半ものあいだ籠城してよく防いでいたが、元就の計略により内紛が起こり、翌年には毛利家の軍門に下って開城した。それから山中幸盛ら尼子残党が、尼子勝久を奉じ信長の力を借りて再興を目指し富田城奪取を目論むが叶わず、ついに上月城で勝久は自刃し、鹿介は謀殺される。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後、徳川家康に敗れた毛利家は富田城を追われることになり、代わりに堀尾吉晴が入城するが、それから11年後には居城を松江城に移したため、難攻不落と云われ、数々の武勇を生んだ名城富田城は廃城となった。
月別: 2015年11月
長崎県島原市にある島原城が建つ地はかっては森岳(または四壁山)と呼ばれ、肥前国大名の有馬晴信が本陣を構えて龍造寺隆信の軍を撃破した場所である。元和12(1616)年には、大和国の五条(奈良県)から入封した松倉重政が、ここに島原城を築いた。重政は、筒井家家老で島左近と共に松倉右近と呼ばれた松倉右近太夫重信の嫡男である。着工から4ないし7年の歳月を経て完成した。築城と同時に城下町の整備も行い、それまでの居所であった日之江・原城を廃城とした。島原城は、南北に本丸と二の丸と三の丸が並ぶ典型的な連格式平城で、外郭は周囲約4kmの塀を長方形に巡らし矢狭間を設け、7個の城門、33個の平櫓を配置した。内郭は堀で囲まれた本丸と二の丸を配置し、その北には藩主の居館である三の丸が設けられた。また、本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込め式で五層の天守閣をはじめ、隅櫓として3箇所に三層櫓がそびえ立つという四万石の新興大名にしては過分にして、豪壮堅固な城構えだった。築城時の過酷な夫役(ぶやく)と重税、そして前代の有馬氏は切支丹大名で布教活動も盛んだったのに対し、時代が禁教令へと変わったことも加えて、松倉氏の厳しい切支丹弾圧の結果、重政の嫡男勝家の時代、寛永14(1637)年に島原の乱が起こったことでも有名である。
現在の八代城は、元和元(1615)年に幕府より発布された一国一城令ののちも、熊本城とともに肥後一国を二城体制で維持することが特別に許された城である。熊本県八代市にあるこの城の特例が認められたのは、おそらく薩摩の島津家を牽制するためだと云われている。当時は熊本城と、麦島城(関白秀吉から肥後南半国を与えられた小西行長が築城した城)の二城体制であったが、元和5(1619)年の大地震により麦島城が倒壊したため、当時の熊本藩主であった加藤忠広が幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕(とくぶち)にある津の北側に城を再建し、同8(1622)年に竣工した。これが現在の八代城である。寛永9(1632)年に加藤家が改易になり、豊前国小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父である細川三斎(忠興)が隠居城として、この八代城に入城した。
明治3(1870)年に八代城は廃城となり、同13(1880)年には八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良(かねよし)親王顕彰(けんしょう)のために本丸に八代宮を設置することとなり、同16(1883)年に社殿が落成した。その際は、本丸の南側にある石垣部分を開いて参道を設けたという。八代城は、八代市の中心的な歴史公園として、今もなお親しまれている。
熊本県人吉市にある人吉城は、鎌倉時代のはじめに征夷大将軍である源頼朝の命を受けて、人吉庄の地頭として遠江国から着任した相良長頼(さがら・ながより)により修築されたものであるが、本格的な山城としては文明2(1470)年頃の第十二代当主の相良為続(ためつぐ)の時と云われている。さらに羽柴秀吉の九州統一後の天正17(1589)年には、第二十代当主の相良長毎(ながつね)が豊後国から石工を招き、人吉城を石垣造りの城として改修した。慶長6(1601)年には本丸と二ノ丸、堀、櫓、御門まで完成し、慶長12(1607)年から球磨川沿いの石垣を築き始め、外曲輪が造られた。それから時は流れて、寛永16(1639)年に石垣工事は中止になるものの、この時点で近世人吉城のほとんどが完成した。この城はいわゆる梯郭式平山城であり、水運を利用するために、球磨川と胸川を外堀に見立てて石垣を築き、多くの船着場が設けられていた。藩祖長頼が修築した際に三日月文様の石が出土したことから「繊月城」または「三日月城」とも呼ばれている。人吉城は二度の大火に見舞われ、中でも文久2(1862)年の寅助火事(とらすけかじ)では城内にあった殆どの建物を焼失した。その翌年には、防火のために槹出(はねだし)という西洋の工法で御館(みたち)北側の石垣が造られた。この工法は函館の五稜郭、江戸湾の品川御台場など近世の城では数例あるが、旧来の城跡に採用されたのは人吉城ただ一つである。明治4(1871)年の廃藩置県の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、現在は石垣だけが残っている。
国の特別史跡で日本三名城の一つに数えられ、さらには築城者で肥後熊本藩初代藩主でもある加藤清正の名前と共に、知らない日本人はいないほど有名な熊本城は熊本県熊本市の中心部に建ち、その堂々たる威容を誇って現在に至っている。時は天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州を平定し、肥後を信長麾下で黒母衣衆筆頭だった佐々成政に与えたが、彼の検地に反抗した地侍連中が一揆を起こし、黒田、立花、島津の力を借りて、どうにか鎮圧したものの領地は召し上げられ、切腹の処分を受けた。その後、秀吉は肥後を二つに割って、北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に与えた。清正は佐々の居所であった隈本城に入り、行長は宇土城を居城とした。しかし、まもなく始まった朝鮮の役で前後七年間も朝鮮に渡っていたので、満足に城を手入れできずにいたが、秀吉が死去し、やっと帰国してみたら、その二年後に関ヶ原の戦が起こった。この時、清正は九州にいて徳川に大いに協力したので、主がいなくなった南半分も手に入れて、肥後一国五十二万石の主になった。そこで大大名に相応しい居城にすべく、慶長6(1601)年から、千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、慶長12(1607)年に完成させた。そして、この時に地名を隈本から熊本に改めた。「隈」の字は阜(おか)に畏(おそ)れると書くので、それでは武士の居城としてはみっともないというのが理由だった。彼は朝鮮の役で苦労し経験したこと、そして異国でみた城壁についても学んでいたので、それらを熊本城の築城に生かしたという。その結果、城郭の周囲は5.3km、面積は98万㎡、城内に大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門、120以上の井戸を備えた堅牢無比の城になった。
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