永禄3(1560)年、土佐の戦国大名となる長曾我部元親が初陣として長浜城攻めの本陣を置いた高知県高知市の若宮八幡宮近くに、彼の初陣之像が建っている。この八幡宮で必勝を祈願し戦いに臨んだという。元親はこのとき二十二歳。遅い初陣であったが、父と弟と共に自ら槍を振って突撃するという勇猛さを発揮し、土佐の豪族の一つであり祖父の仇である本山梅慶を打ち破ったという。その年、父の国親が急病で亡くなり、家督を相続する。本山家を圧服して土佐五郡を手に入れ、後に土佐一国を手に入れる。最初は祖父の仇打ちであったが、領土が大きくなるにつれて、四国全体の主になりたいという野望が芽生えてきたのであろう。ちなみに、彼の母は美濃斎藤氏の娘であり、彼の正室は明智光秀の片腕である斎藤利三の妹である。その関係か、彼は大の「織田信長フリーク[a]いわゆる熱烈的な信長信奉者。」であり、自分の嫡男である与三郎には信長から偏諱を受け信親と名乗らせ、信長の左文字である備前兼光を拝領した。しかし、信長が元親の四国統一を望まず、一転して対立状態になると、信長は三男の信孝と丹羽長秀を四国に派遣して平定しようとしたが、その矢先に本䏻寺の変が勃発し、四国平定軍は解散し撤退した。これにより元親は危機を脱することができた。
参照
↑a | いわゆる熱烈的な信長信奉者。 |
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