鳥取県鳥取市にある鳥取城は、天文年間に因幡国(いなばのくに)の守護である山名誠通が久松山(きゅうしょうざん)の自然地形を利用して築いた山城であり、元亀年間の武田高信が城主の時代に主家筋にあたる山名豊国が山中幸盛(鹿之助)ら尼子残党と組んで攻略する。その後、鳥取まで勢力を伸ばしてきた西国の雄である毛利家の吉川元春と、織田家の中国攻略の先鋒である羽柴秀吉との間で起こった衝突のまっただ中に晒されるようになる。この山名豊国(禅高)は臆病人として有名で、その時々で毛利側についたり、織田側につうじたりとしていたため、織田軍に反抗する家来共に鳥取城から追い出され織田家に出奔すると、秀吉は信長の命により鳥取城攻略に本腰を入れる。これが、天正9(1581)年の「渇え殺し」と呼ばれる惨劇を生んだ兵糧攻めとなる 。
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