鳥取県鳥取市にある鳥取城は、天文年間に因幡国(いなばのくに)の守護である山名誠通が久松山(きゅうしょうざん)の自然地形を利用して築いた山城であり、元亀年間の武田高信が城主の時代に主家筋にあたる山名豊国が山中幸盛(鹿之助)ら尼子残党と組んで攻略する。その後、鳥取まで勢力を伸ばしてきた西国の雄である毛利家の吉川元春と、織田家の中国攻略の先鋒である羽柴秀吉との間で起こった衝突のまっただ中に晒されるようになる。この山名豊国(禅高)は臆病人として有名で、その時々で毛利側についたり、織田側につうじたりとしていたため、織田軍に反抗する家来共に鳥取城から追い出され織田家に出奔すると、秀吉は信長の命により鳥取城攻略に本腰を入れる。これが、天正9(1581)年の「渇え殺し」と呼ばれる惨劇を生んだ兵糧攻めとなる 。
今回は、自身初となる中国山陰地方にある城攻めで、鳥取県で唯一の日本百名城である鳥取城を攻めてきた。別宅のある広島から山陰地方は公共機関を利用すると意外と遠い。この日は、近所のクリーニング屋に立ち寄る必要があったので開店時間に合わせて移動を開始することになった。まず広島から岡山までは新幹線700系ひかり。岡山から鳥取までは特急スーパーいなばに乗車した:
鳥取駅に着いたのが13:00近く。そして、まずは恒例の腹ごなしということで鳥取県のB級グルメを堪能し、鳥取駅前から100円で利用できる循環バス「くる梨」の緑コースで「仁風閣・県立博物館」前まで移動した。バス停の目の前が北ノ御門跡で、内堀を渡って御番小屋跡、城代屋敷跡・上御厩跡・米蔵跡から鳥取城内に入った。本来は、このバス停の先にある中ノ御門跡を先に見ておくべきだった。そこには、秀吉による兵糧攻めの時に城主として入城していた義将・吉川経家公の像が建っていたそうで。あとで知って残念 。次回は是非。実は彼とは、その後、岩国の地で再び会うことになるのだけれど。
鳥取城は、当初は久松山(標高263m)の山頂に天守櫓を持つ本丸をはじめ二ノ丸、三ノ丸、出丸を築いて「山上ノ丸(さんかのまる)」とし、戦争になるとここに籠って守備したという。江戸時代にはいり戦争が無くなると、久松山の麓に「山下ノ丸(さんげのまる)」を造り、ここに改めて二ノ丸や三ノ丸、天球丸などを築き、ここにある御殿に居住して政司を行ったという:
それから、鳥取大震災で倒壊した後に復元された中仕切門を通って山下ノ丸の二ノ丸に登った:
石段を登っていくと二ノ丸の高石垣に遭遇する:
二ノ丸の石垣に野面積み、切込み接ぎといいくつか種類があったのは時代の違いだろうか:
総じて鳥取城には珍しい石垣がたくさんある。
二ノ丸には登り石垣という三角の形をした石垣、他には櫓台の石垣までもが興味深い形をしている:
三階櫓跡は、二ノ丸の南西隅、市街地に面して建っていた三層三重の隅櫓(焼失):
そして、大小の菱櫓台跡。これらは、走櫓に隣接して立っていた二層二階の櫓で、土台の石垣から平面は菱形をしていた:
二ノ丸の東端、三ノ丸の北には楯蔵(たてぐら)と天球丸跡がある。楯蔵跡は楯形に曲がった小さな平櫓が建っていた曲輪。これは享保5(1720)年の石黒火事という大火で、城内ほとんどの建物が焼失した際に焼け残り幕末まで存続したらしい:
天球丸は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後に入城した池田長吉の姉である天球院に由来する曲輪である:
この天球丸跡の一段下には、これまた面白い形をした石垣が復元されている:
これは亀の甲羅状の巻き石垣と呼ばれるもので、戦国時代から江戸時代初期には存在せず、江戸時代中頃から幕末にいたる期間のどこかで築き足されたものらしい。この部分の石垣が崩れかかっていたため、その崩落を防ぐことを目的に、もとの石垣の上に同じ高さの石垣を築くという立体的な手法で拡張されており、日本全国でも確認例の少ない珍しい石垣。
ひととおり山下ノ丸を攻めた後は、中坂登城道で本丸のある山上ノ丸へ登った。
ちなみに、この登城道には勾配が急な方と緩い方があるようで(これも後で知ったのだけれど)、自分は登り降り共に急な勾配を使った。さらに前日は雨で、この日が快晴だったため山全体が温室効果となり、かなりの湿気の中を汗をかきながら歩いた:
途中、一部が濁流になっているところがあり、足を取られないようにして、山上ノ丸まで20〜30分くらいかかった:
本丸には天守が建っていた天守櫓跡がある。天正元(1973)年に山名豊国が因幡守護書を布勢天神山城から、ここ鳥取城へ写した際に、布勢天神山城にあった三層の天守を移築したと云われている。その後、池田長吉が二層に改築した:
この日は快晴だったのだけれど、市内はやや靄がかかった感じだった:
鳥取砂丘もなんとか見えた感じ(山の陰にある茶色っぽいところ):
本丸からは「渇え殺し」の兵糧攻めで、羽柴秀吉が本陣を置いた本陣山(標高252m)が目の前に見えた。本陣山にあった羽柴秀吉の本陣部分は「太閤ケ平(たいこうがなる)」と呼ばれ、巨大な土塁や空堀が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた陣城としては日本最大級と評価されている:
秀吉は鳥取城攻略に先立って、若狭の商人に米を通常の倍の値段で買い占めさせたところ、あろうことに城兵は自ら備蓄米を売りに出してしまった。その後、二万の軍で鳥取城とその付城である丸山城との全長12kmを完全に包囲し補給路を断ったので、直ぐに兵糧が尽き、毛利軍の援軍も阻まれて孤立無援となった。包囲して三ヶ月目には餓死者が続出し、果てには死者の肉さえも奪い合うという餓鬼道がこの世に現出した。
そして四ヶ月目に、この壮絶な窮状を見るに見かねた吉川経家は自分の命と引き換えに城兵助命の条件で降伏を決意する。これに対し秀吉は、経家ではなく豊国を追放し毛利方に寝返った中村春続と森下道誉の切腹を要求したものの、経家は「責任はあくまでも城主の自分にある」として譲らず、秀吉はその潔さに承諾した。検遣役として派遣された堀尾吉晴が見守る中、吉川経家は久松山の麓で切腹する。享年35。彼の遺書は毛利家と自分の子息に宛てたものが残っている:
「鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて、吉川一門の名をあげた。その幸せな物語を聞いてほしい」(現代語訳)
届けられた首を見て秀吉は「哀れなる義士かな」といって男泣きしたという。結局は、その後、春続と道誉の二人も切腹させられた。
本丸で鳥取市街の眺望を楽しんだ後は登山道を下山し、麓にある仁風閣を横目に、再び100円バスに乗って鳥取駅へ向かい、特急スーパーいなばと新幹線を乗り継いで別宅に帰宅した:
鳥取城攻め (フォト集)
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