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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

高知城 − Kouchi Castle

高知城は現存する外観四層(内部は三層六階)の望楼型天守

高知県高知市にある高知城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の功績により土佐一国二十四万石を拝領した山内一豊(やまうち・かつとよ)が入国後に築城した城で、最初は河内中山城(こうちやまじょう)と呼ばれ、次に高智山城と名前を変えたのちに、現在の高知城という名前になった。この城が建つ大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから軍事拠点として利用されていた。そして、戦国末期に四国の覇者となった長宗我部元親は、天正16(1588)年に岡豊城からここ大高坂山に移り築城したが、水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、天正19(1591)年には土佐湾に面した浦戸城に移転している。
山内一豊は大高坂山の山頂に本丸、少し下がったところに二の丸、そして東側の一段下に三の丸を配置した。なお本丸と二の丸を分断する堀切部分には詰門を配置し、南側の廊下門と一体になった縄張になっている。そして、享保12(1727)年の大火で焼失した天守は寛延2(1749)年に三層六階の望楼型天守として再建され、明治時代の廃城令や太平洋戦争の空襲からも逃れ現在に残る、非常に幸運な城となった。また、本丸に国内で唯一、本丸御殿がほぼ完全な形で残っているのも見どころ。

昨年は2014年の夏に、自身初めての高知県入りを果たした。出張で別宅のある広島からは、高速バスで瀬戸大橋から四国入りし、4時間弱でJR高知駅前に到着した。ちょうど香川県の坂出から高知県の高知まで斜めに走るコース。高知に入ってから、まずは桂浜公園で龍馬に会い、高知市内へ戻るがてら四国の覇者である長曽我部元親公初陣の像を見てきた。本当は公とその嫡男・信親の墓所にお参りする予定だったのだけれど道に迷ってタイムアップしてしまった :$。次回は是非、お参りしたい =)

で、まずは高知城こと県立高知公園の園内に建つ山内一豊公の銅像。近江国(現在の滋賀県)長浜二万石から、小田原の役で遠州国(今の静岡県)掛川城五万石、そして関ヶ原の戦いで土佐二十四万石の大名になった。これと言った勇名度は無いものの、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三英傑の天下取りの間を巧みに生き抜いた武将の一人である:

騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスらしい

山内一豊の銅像

高知城の表門(表玄関)である追手門。寛文4(1664)年に再建さたもので、当時としては珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、すぐには内部が見通せないように右側に建てられた。重要文化財:

2つの石垣の上に渡櫓を載せた巨大な櫓門

追手門

この追手門の門前は矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、門に迫った敵軍を三方向から攻撃できるようになっている。また重層で入母屋造り、その木割は太く堂々とし、欅(けやき)を用いた主柱や扉、冠木(かぶき)などには要所に銅製の飾り金具を取り付けられており、その規模は大きく、城門として豪壮優美な趣きを備えたものになっている:

主柱には欅を用い、冠木には金属が取り付けられている

追手門の梁行

これは、杉の段にある「石樋」(いしどい)。城の排水機構。暗渠とも言う。三の丸に降った雨水を集めて、二箇所ある石樋から排水することで、石垣内部に泥水が入って目詰まりによる緩みが生じないように設けられたもので、さらに高知城では排水した水が直接、石垣にあたらないようにするために、石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している:

城の排水機構

石樋(いしどい)

これは杉の段からみた三の丸の石垣たち:

築城開始して10年後の最後に完成した三の丸の石垣

三の丸の石垣

慶安3(1650)年に地震や豪雨で崩壊したが修理された

三の丸の石垣

 

杉の段は「井戸の段」とも呼ばれ、将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際に、藩主自らこの井戸段に出向いたという。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここで一族が出迎えたり、見送りに出向いた。また、「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物が建てられていた。

ここで、高知城の石垣いろいろ:

杉の段の石垣

杉の段の石垣

杉の段の石垣

杉の段の石垣

三の丸の石垣

三の丸の石垣

本丸の石垣

本丸の石垣

鉄門付近の石垣

鉄門付近の石垣

 

詰門は、本丸と二の丸をつなぐ櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた(これが詰門の由来):

本丸と二の丸の間に設けられた空濠をまたぐ形で建てられている

詰門

そして詰門付近からみた天守:

望楼型天守の最上階には廻縁高欄が付けられている

天守(重要文化財)

こちらは二の丸付近からみた天守:

標高44.4mの所にある天守

天守(重要文化財)

二の丸は、本丸の北、三の丸の西上方に位置しており、ここに建っていた二の丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が生活をする奥御殿が連続しており、一部は二階建てだったとか。明治時代の廃城令で全ての建物が破却されしまった。
この天守の写真を見るとわかるとおり、高さ18.5mの天守閣には天守台は無く、北面の石垣からそのまま建ち上げる形で築かれており、その入口は本丸御殿に接した状態になっている:

詰門は御殿にも接続している

詰門(廊下橋)と天守

そして、実際に本丸へ行くには、この廊下門こと詰門の中を通って行く。ちなみに、本丸御殿と天守閣は料金は420円(当時)。
本丸には天守・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物が残り、いずれも国の重要文化財に指定されている。東多聞は武器庫として使用したといわれ、西多聞には本丸警護の武士が詰める番所が置かれていたという。黒鉄門は本丸の南に位置し、儀式の際に藩主が出入りする門であった。

本丸から天守を見上げてみたところ:

別名は「咸臨閣」

天守(重要文化財)

天守は外観は四層であるが、内部は三層で六階建てになっている。二階大屋根と最上層にはそれぞれ銅製の鯱が置かれており、大屋根の南北は千鳥破風、第三層の寄棟部分んは東西に唐破風が置かれている。そして屋根の鬼瓦は「鬼面文鬼瓦」(おにめんもんおにがわら)になっている:

鬼瓦

天守(重要文化財)と鬼瓦

「鬼面文鬼瓦」(おにめんもんおにがわら)

鬼瓦

 

高知城の天守は外観を美しく見せる工夫が随所に施されおり、力強い軒先の反りも見事で、小規模ながらも南海道随一の名城と謳われた面影を今に残している:

「忍び返し」と「石落とし」

力強い軒先の反りが見事な外観4層(内部3層6階)の望楼型天守

 

こちらは山内家の家紋が入った鬼瓦の「三葉柏文鬼板瓦」(みつばかしわもんおにいたがわら):

「三葉柏文鬼板瓦」(みつばかしわもんおにいたがわら)

鬼瓦

天守にある鉄砲狭間から詰門、二の丸、鉄門跡を見たところ:

左から詰門、二の丸、鉄門跡

天守の狭間からの眺め

ちなみに、四国を制覇した長曽我部元親はそれまでの居城・岡豊城からここ大高坂山に移り築城したものの、三年後には太平洋がすぐそばにある浦戸城に移っているが、この浦戸城は現在の桂浜公園にある国民宿舎桂浜荘あたりにあったという:

真ん中の丘の上に立つのが桂浜荘

浦戸城跡

See Also高知城攻め (フォト集)

1 個のコメント

  1. 石垣の苔が時代を物語り、天守の部屋に充満する匂いが時代の経過を伝えてくれる。
    追手門から詰門、本丸、天守は見たのだけれど、黒鉄門を見るのを忘れた。功名が辻の主人公である一豊と千代の像が離れているのは何か意味があるのだろうか。

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