岡山県津山市にある「津山城」。築城は室町時代に美作国の守護大名であった山名氏で、鶴山(がくさん)という丘陵に建てた鶴山城が始まり。応仁の乱後に山名氏が没落すると廃城となるが、慶長8(1603)年に森忠政が入封し津山藩を興し、その翌年から13年かけて丘陵を削って築城した輪郭式の平山城。往時には五層の天守閣がそびえ、本丸には備中櫓、栗積櫓など多くの櫓が立ち並び、また七十余の部屋からなる御殿と庭園があったとか。この城は、とにかく門跡が非常に巨大で、高石垣の高さは見応えがあるのが特徴である。
今回の城攻めは広島からJR新幹線みずほ602号で岡山へ移動し、そこから津山線で津山、それから姫新線に乗り換えて隣の東津山まで移動した。わざわざ東津山で降りたのは津山市の名物「津山ホルモンうどん」を食べたかったから。
食事を済ませたあとは城下町を通って津山城へ。この城東界隈には現在でも武家屋敷や資料館、名家・旧宅があり、とてもゆったりとした時間を過ごせる場所だった。町柄なのか、なんとも「日本の田舎」って感じ:
津山洋学資料館には、津山から輩出した多くの洋学者(蘭学者)たちの貴重な資料が展示されている。その一人の箕作阮甫は多くの翻訳に携わり、江戸時代の外交交渉の要となる人物だったとか。外交の他にも医学、語学、地学、兵学など多くの分野で本を出版した。彼の旧宅も復元されて鑑賞することができた。
そんな城下町を抜けて宮川という川までくると、津山城の高石垣が見えてくる:
そして映画「男はつらいよ」のロケ地でもあった大橋を渡り、三ノ丸高石垣を横目に津山城こと現在の「鶴山(がくさん)公園」の入口へ移動した:
そこには、津山藩初代藩主でもある森忠政公の像や、築城時に運ばれることがなかった石(1998年に津山市大谷の石山登山道近くの谷川で発見された)が展示され、津山城跡の説明板と縄張図がある:
ちなみに、藩主の森忠政は美濃国に、織田信長の家臣であった父・森可成の六男として生まれたものの、本䏻寺の変では蘭丸・坊丸・力丸ら三人の兄を失い、さらには羽柴秀吉と徳川家康による小牧・長久手の戦いで長兄の長可が討ち死にしたため、末弟の忠政が森家を継ぐことになった。関ヶ原の戦後に兄長可の旧領だった信濃13万石から美作国18万石に加増・転封になった。
公園入口にて入場券(大人300円)を購入して園内に入り、冠木門跡を曲がると三ノ丸へ続く表門跡が「ど〜ん」と広がる。石段の大きさが半端ない:
三ノ丸に入ると、さらに表中門跡が迫ってくる:
ここには往時、二つの石垣をまたぐ格好で二階が櫓、一階が門である津山城内で最大の門があった。櫓の幅だけでも32mもあったとか。この門の石段を登って左に曲がると二ノ丸に入る。二ノ丸からは2005年に復元された備中櫓と本丸の高石垣を眺めることができる:
ここで二ノ丸から切手門跡を抜けて(眺めの良い)二ノ丸の東隅に入った時に、サイレンの音が響いたので何だろうと見回したところ「火事」だった:
それから本丸に入り備中櫓の中に再現された御殿の一部を見学した:
ちなみに備中櫓のこちら側(本丸側)は同時代の建造物を参考に想像で設計・工事したものらしい。どうやら、こちら側の図面や写真は存在していないことが理由だとか。本丸には備中櫓の他にもいろいろな櫓台跡があり、さらには天主台も残っていた。そして、そこからの眺めも格別だった:
天主台の西側にある多門櫓跡からは津山市の西側の眺望を堪能できる:
その他にも、本丸北側にも粟積櫓や大戸櫓といった跡が残っており、そこからの眺望も素晴らしく、高石垣の見事さに驚かざるを得ない:
津山城の東側は断崖で、その下の宮川が外堀の役目になってくれている、まさに天然の防御:
津山城の巧妙にそして高く積まれた石垣は「伊予松山城」とひけをとることなく、さらにその巨大な門跡は大坂城や江戸城と肩を並べるくらいの雄大さを持っている。
で、実は今回の城攻めから「秘密兵器」を投入している。やはり携帯のカメラでは城の素晴らしさを収めるには役不足であり、何よりもバッテリー持ちが極端に落ちるし、さらに個人的には一眼レフなんてのも気になっていたので出張中にもかかわらず、それも半分は「衝動的」に購入してしまった。今となっては、その性能はもちろんのこと、城攻めには手放せない「相棒」になっている。
津山城攻め (フォト集)
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