城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

徳島城 − Tokushima Castle

徳島城の三木曲輪からみた下乗橋(げじょうばし)と内堀

徳島県徳島市の徳島城は、秀吉が木下藤吉郎と呼ばれていた頃からの古参である小六こと蜂須賀正勝の嫡男・家政が、天正13(1585)年に吉野川河口に立つ標高約61mの渭山(いのやま)に築いた悌郭式平山城である。もともとは秀吉の側近として常に付き従っていた小六が、四国攻めの取次ぎ後に長曽我部元親に対する抑えとして阿波一国を与えられたものの、自分はいつまでも秀吉の近くで仕えることを希望してこれを辞退し、家政に拝領させたものである。家政は、渭山の山頂に本丸を置き、その周囲に西二の丸、西三の丸と東二の丸を配置して詰城とし、麓には御殿を建てた。築城にあたっては、伊予の小早川隆景や土佐の長曽我部元親、比叡山の僧侶らが協力したと云う。本丸にあった初代の天守は元和期に取り壊されたため、なんと、その後は本丸の一段下にある東二の丸に天守が建てられた。石垣は阿波の「緑色片岩」(りょくしょくへんがん)を用い、特に本丸周囲の高石垣は緑色の石垣になっている。一方、西の丸の石垣は屈折を繰り返し、横矢がかりの工夫が際立つものになっている。徳島城は、その後、藩主の居城として徳島藩のシンボルであったものの、明治時代の廃城令で解体され、さらに太平洋戦争で鷲の門が焼失するなどしたが、現在は市民の善意で鷲の門が再建されたり、見応えのある石垣や庭園などが残っている。

徳島には、高知からJR四国の特急南風4号に乗って阿波池田まで移動して、そこから特急剣山4号で入った。阿波踊りでも有名な自身初の徳島。残念ながら、朝から天気が下降気味で、徳島駅に着いた頃にはぽつりぽつり降っていた。そういうことで、かなり急ぎ目で徳島城を攻めたため、徳島市立徳島城博物館(と中にある庭園)は訪問せず、また数寄屋橋など一部の櫓を見ることができなかった。残念 ;(

三木曲輪にある徳島城の縄張図:

渭山(いのやま)の山頂部分に東西横長の縄張

三木曲輪に建つ縄張図

三木曲輪に建つ鷲の門(形式は薬医門)。徳島城の正門に相当し、かつては将軍より賜った鷲を飼うための門だったとか。瓦屋根の左右に載っているのは鷲の銅像:

昭和20(1945)年の米軍機による焼夷弾で焼失したが再建された

再建された鷲の門

内堀を渡った新しい方の大手門がある石垣の上から見た鷲の門と三木曲輪:

今は徳島中央公園となっている徳島城跡

鷲の門が建つ三木曲輪

三木曲輪と追手門の間には内堀があり、それらを結ぶのが下乗橋(げじょうばし):

左手に見えるのが下乗橋

内堀と大手門石垣

三の丸石垣に相当する

内堀と大手門石垣

この石垣の隅に月見櫓があった

内堀と大手門石垣

 

これらが下乗橋:

三木曲輪から少し遠目にみた下乗橋

下乗橋

ここを通って大手門跡に進む

下乗橋

 

大手門跡に行くにはまず枡形虎口に入る必要がある:

左が大手門跡の方向、右が下乗橋の方向

大手門跡の石垣

左が下乗橋のある三木曲輪、右が黒御門のあった大手門

大手門跡の石垣

だんだんと緑色の石垣が目立つようになってきた

大手門跡の枡形虎口

大手門は黒御門とも呼ばれ、鷲の門ができるまではここが大手門だった。大手門の石垣の左右には太鼓櫓と月見櫓が建っていた。そして、大手門跡の石垣上から見た枡形虎口、下乗橋と三木曲輪:

中央にあるのが下乗橋、左奥が鷲の門

大手門跡の枡形虎口

大手門を過ぎると、現在はベンチなどがある公園広場になるが、往時はここが三の丸になっていて藩主の居間や家臣に引見する広間、大書院などを持つ表御殿と奥御殿、奥庭園、馬場、弁天池などがあり、さらに二重櫓や屏風櫓などで囲まれていた:

いわゆる三の丸の石垣

表御殿や奥御殿を囲んでいた石垣

三の丸には複数の櫓が建っていた

表御殿があった三の丸と石垣

右側が月見櫓台跡

三の丸を囲む石垣

 

三の丸を進んでいくと「徳島城博物館」があり、左手には徳島藩祖にあたる「蜂須賀家政公銅像」が建っている:

秀吉古参の直参である蜂須賀小六の嫡男にして徳島藩祖

蜂須賀家政公銅像

父政勝から阿波一国十八万石を譲り受けるように拝領し、一宮城から中世に築造された渭山城を修築して徳島城とし、藩政の中心地にした。入国後は藍、塩などそれまで阿波には無かった産業を取り入れて工業を興し、盛んに日本中に売り広めたと云う。また、全国的に有名な阿波踊りも家政公の時代に始まったと伝えられている。実のところ、戦前は野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六政勝公(家祖)の銅像が建っていたが、悲しいかな戦時中に供出させられてしまったらしい  :|。そして、戦後の昭和40(1965)年に、この袴姿の家政公の銅像に生まれ変わったそうで。ちなみに、彼の妹である糸姫は、同じく「秀吉ファミリー」である黒田長政の正室であった(その後、政略離縁させられ、阿波にて一生を送った)。

さらに三の丸を進み、ちょうど博物館の裏辺りにくると登城道に相当する東坂口がある:

徳島城本丸へ続く登城道入口

東坂口

この辺りから、徳島産で緑色した珍しい石の石垣が多くなってくる。徳島城には本丸を中心に西と東と北から登る三つの登城ルートがある。今回は東から登って本丸を経由し、西にある西坂口へ降りるルートである。
まずは東坂口から登って、天守跡のある東二の丸へ進む:

奥にあるのが天守跡

東二の丸跡

東二の丸には、天守に相当する三層の御三階櫓が建っていた。天守一階は7間(約14m)四方の大きさであったが、天守台は築かれていない。このように、本丸から一段下がった場所に天守が建っていたのも徳島城の特徴である。

東二の丸から再び登城道を登っていくと本丸石垣が見えてくる:

徳島産出の緑色片岩を用いた「緑色の石垣」

本丸石垣

一部の石垣には補強が施されていた

本丸石垣と東側虎口

徳島産出の緑色片岩(りょくしょくへんがん)を用いた、いわゆる「緑色の石垣」。写真にあるとおり、扁平な形をしているため大規模な城郭を築くには適していないようにも見えるが、他の城とは違ったなんとも言えない趣きを醸し出している =)
本丸の東側虎口を上ると、結構な広さの本丸に到達する:

本丸の西側

本丸

本丸は標高が約61mの渭山(いのやま)山頂に置かれた曲輪で、徳島城の山城部分の中では最も面積が広く、その中央部分に置かれた御座敷と御城山定番(じょうばん)の詰めた御留守番所の他に、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていた。本丸の出入り口は東西の門が使われたが、北口には御座敷の建物で隠した非常用の脱出口である埋門(うずめもん)があった。

本丸から見た吉野川に架かる古河大橋を含む眺望:

吉野川に架かる県道39号の古川大橋

本丸からの眺望

こちらは本丸の北側にある虎口で、徳島中央公園北にある助任川に通じる登城道につながる:

こちらも「緑の石垣」が見事

本丸北側虎口

それから、本丸の西側にある虎口から西二の丸へ降りていく:

西の丸へつながる西側虎口

本丸西側虎口

西側の本丸石垣も見事:

本丸西側虎口の石垣

本丸石垣

弓櫓台

本丸石垣

これは弓櫓台から下を覗き込んだところ:

攻めてくる敵の真上から攻撃できる

本丸石垣から下を覗き込む

西二の丸跡。往時、ここには鉄砲櫓や帳櫓(とばりやぐら)が建っていた:

鉄砲櫓や帳櫓が設けられていた曲輪

西二の丸跡

西二の丸石垣と帳櫓の石垣:

こちら側は大きめの石垣が多用されている

西二の丸石垣

虎口を守備する櫓

帳櫓の石垣

 

西二の丸の西方にあるが西三の丸。ここには材木櫓や平櫓が建っていたが、今は水道配水池になっていた:

今は水道配水池が設置されている

西三の丸

このまま西三の丸門跡を通って西坂口へ降りた。天気はまだはっきりしないけど、雨は降っていないので三の丸石垣沿い(JR徳島駅北側)を歩いて、次の目的地である眉山ロープウェイ駅まで歩いた:

 

鏡石?

西三の丸石垣

往時は寺島川が天然の堀だったが、今はJRが通っている

屈折している西三の丸の石垣

徳島中央公園として市民に開放されている徳島城。天守などの遺構は残ってないけれど、他の城とは色合いの違う石垣を眺めるのは価値あり。

See Also徳島城攻め (フォト集)

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    天気が不安定だったので、それほど大きな規模でなくてよかった。とはいえ、この後に眉山へ登ったら大変な大雨に遭遇した。傘持っていなかった…。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

© 2023 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders Noren先頭へ ↑