慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は周防・長門二カ国の三十七万石に減封(改易)されたが、その一門である吉川広家は本家防衛のために伯耆の米子からここ岩国へ移り、岩国城を築城した。この岩国城は、現在の山口県岩国市にある標高200mほどの要衝・横山の山頂に築いた「横山城」と、その麓に建てた居住地ならびに政務を行うための「御土居(おどい)」という館から構成されていた。これは、戦時には横山城に籠もり、平時は麓の館で生活するという中世の流れを組む典型的な山城である。横山の三方を迂回する錦川が天然の外堀となり、川向うで町割りを行って城下町が形成され、山頂の本丸には四層五階で南蛮造りの天守が建造されいた。しかし、完成からわずか七年後の元和元(1615)年に幕府の一国一城令により、その天守や建物が破却され廃城となった。
この日は、午前中に「広島城攻め」した足で山口県のJR岩国駅まで移動し、駅前からバスで錦帯橋前まで来たところで、それまでぼつぼつと降っていたのが本降りになってしまい、仕方がないので(入橋料は300円で)錦帯橋を渡って御土居のあった吉香(きっこう)公園と、岩国吉川家の墓所を訪問するにとどめ、次の日に改めて岩国城を攻めてきた。この前の年の広島出張で岩国城を攻めた時は晴天だったんで、ちょっと残念
。
まぁ、前回と同様に、今回も登山道は使わずに吉香公園の奥にあるロープウェイで山頂の二の丸まで移動し、城山の登山道で本丸まで移動した。本丸へ行く途中ににある「大釣井(おおつるい)」という大井戸は、非常時の武器弾薬の貯蔵庫として使われた他に、城外へ出るための抜け道も備えていたとか:
城山の山頂(本丸)までは舗装された山道と、一部のみ舗装された山道の二つの経路があり、後者を行くと、おそらく破却されて残ったままの石垣を見ることができる:
本丸に建つ現在の天守は、昭和37(1962)年に再建された模擬天守で、桃山南蛮造りの天守閣内に、錦帯橋の精密模型、写真、武具や甲冑などが展示されており、最上階の望楼(展望台)からは岩国市街の眺望を楽しめるようになっている:
天守の最上階からの眺めはとても素晴らしかった。この日は、前日の雨のせいで少し靄っていたけど、やっぱり錦帯橋は綺麗だった:
本丸の奥の方には、破却前に天守が建てられていた天守台が残っていた:
岩国城は、江戸時代には珍しく山頂に築かれた近世城郭であり、城郭の中心となるこの天守台は、「古式穴太積み(こしきあのうづみ)」と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に地方独自の技術が加わった他には見られない構造物になっている。
天守台の角石(すみいし)には算木積み(さんぎづみ)の技法が見られ、その隅部には反りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられているため、見かけの美しさよりも耐久性に重点が置かれていたと推測される。
本丸と二の丸をひと通りみて、再びロープウェイに乗って下山した。それから吉香公園を横切って途中にあった岩国藩の武家屋敷跡などを眺めていると、なんと「吉川経家公弔魂碑」なる石碑を見かけた。「鳥取城攻め」では残念ながら公の銅像や墓所を訪れることができなかったのだけれど、まさか岩国城下で再び会うことができるとは思わなかったので、感動した 。どうやら彼の子孫が岩国藩に仕え、その吉川氏の屋敷があったこの場所に、先祖を弔う碑を建てたとか:
なんと石碑が建っている礎石には鳥取城の石垣が使われているらしい。合掌。
最後に、あまり天気が良くなかったけれど錦帯橋と錦川をいくつか:
透きとおる錦川の水面:
錦帯橋と並行に架かっている錦城橋(きんじょうばし)から見た錦帯橋:
岩国城攻め (フォト集)
一昨年の2013年の広島出張 (訪問記)
鳥取城跡では、この義将の墓にお参りできなくて残念だったのだけど、なんと岩国藩の足元に慰霊碑が立っていた。
自分も数年前に読んだ漫画の「センゴク」で彼の義将たる器を知ったのだけれども。
秀吉も最後の最後まで彼の切腹には反対していたが、結局、自害後に彼の首を見て男泣きしたとか。
築城は吉川広家。典型的な山城の構成(平時は麓の館で暮らし、戦時はこの山城に立て篭もる)。昨年は真夏の中を革靴で山登りした記憶が。
復興天守をよくよく見ると、若干、気になる傷みが目につく。とは言え、やはりロープウェイを降りて山道を登っていく際に見かける石垣は絶品だなぁ。空気もヒンヤリして気持ちいい。ロープウェイで降りる際にお決まりのアングルから岩国錦帯橋空港方面を撮る。
それから吉川家代々のお墓をお参りする。一番上まで登ったところに岩国藩初代藩主の広家が眠っている。ちなみに吉川元春の正妻のお墓はあるけど本人のお墓はない