城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

佐嘉城 − Saga Castle

天保9年(1838)当時の姿を残す佐嘉城の鯱の門

 

佐賀県佐賀市にある「佐嘉城」は、肥前の熊こと龍造寺隆信の居城であった佐嘉龍造寺城(村中城)を、彼の従兄弟であり義弟であり重臣の一人であった鍋島直茂とその子勝茂が拡張して、鍋島佐賀藩36万石の居城となるべく、慶長13(1608)年に普請が始まり3年後に完成した。この城は四方を堀で囲み、平地に築かれた典型的な平城であり、本丸には五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの天守閣が建てられたが、享保11(1726)年の大火災で焼失した後は再建されなかった。それ以外に度重なる火災で本丸や二の丸が焼失しているものの、本丸跡の鯱の門や本丸御殿が再建・復元されている。また天守台とその石垣も残っており、隅檜台の石垣や水堀などを見ることができる。

前月の「福岡城攻め」(当時)に続いて二度目の九州上陸。今回は広島からJR九州新幹線のさくら543号で新鳥栖まで移動してから、在来の長崎本線で特急みどりに乗り継いで佐賀駅まで移動した。広島から佐賀まで、およそ2時間弱だった:

新鳥栖駅の新幹線ホーム

新鳥栖駅の新幹線ホーム

人生初の佐賀県入りであり、その新鳥栖駅ではこれまた初めてみるJR九州の車両たちが新鮮だった:

JR九州の800系つばめ

JR九州の800系つばめ

特急しろいカモメ号

特急しろいカモメ号

そして新鳥栖駅から(特急ハウステンボスに連結したハイパーサルーン型の)特急みどりに乗り換えて佐賀へ移動した:

ハウステンボス号

ハウステンボス号+ハイパーサルーン型みどり号

JR九州の佐賀駅

JR九州の佐賀駅

佐賀駅から佐嘉城のある佐賀城公園までは徒歩の他にもバスがあるのだけれど、バス停が駅前ではないので少し歩かないといけない。今回は行きは徒歩で、帰りはバスを利用した。佐賀県庁に向けてR29を南下すること30分程。途中、「唐人町(とうじんまち)」を経由し、県庁の真北に鎮座し佐賀開府の鎮守の神として祀られた「龍造寺八幡宮」で城攻めを祈願した:):

龍造寺八幡宮の境内

龍造寺八幡宮の境内

唐人町については、天正19(1591)年に佐賀藩に召し抱えられた高麗人の李宗歓(りそうかん)は関白秀吉の朝鮮出兵の際に通詞訳として、また陶工たちの招聘にも重要な役割を果たしたその一方で、母国に対しては利敵行為となり帰国することができず佐賀に留まることになったのを藩主の鍋島直茂が不憫に思い、佐嘉城下の十間堀川以北に高麗人の一団を住まわせたことが由来だという。ちなみに「唐人」は異国人という意味。
そして、県庁の真北に鎮座し佐賀開府の鎮守の神として崇められている龍造寺八幡宮は、もともと龍造寺氏の村中城にあったものを慶長年間の佐嘉城築城の際に、この地に移転したものらしい。

それからお昼ちょっと前に佐賀城公園に着いたので、恒例の腹ごなしとして佐賀のB級グルメを頂いてから城攻めした。この市民の憩いの場となっている公園の一角には佐賀県立・佐賀城本丸歴史館があり、そこでは戦国期で龍造寺隆信の村中城、江戸初期で鍋島直茂・勝茂親子による佐嘉城、そして幕末明治期に佐賀藩が輩出した偉人らについてひと通り触れることができるようになっているのに加え、歴史的にも貴重な史跡を見学できる。

まず、天保9(1838)年当時の姿を今に残す「鯱の門」。これは幕末の佐賀の乱で江藤新平ら反乱軍が占拠した際にできた銃弾跡が今でも残っている(木戸に残っている):

鯱の門

国の重要文化財である「鯱の門」

次に、鯱の門の隣には一部だけ復元された本丸御殿が建っており、この中が歴史館となっていた。ここで復元しなかった一部の建物遺構、例えば長局や請役所などの多くの建物は白い線で「遺構表示」されていた:

復元された佐賀城本丸御殿

復元された佐賀城本丸御殿

御座間から見た外御書院

御座間から見た外御書院

御座間(ござのま)

御座間(ござのま)

御座間はその瓦や柱などに天保期当時の部材を使用しているらしい。外御書を含め、建物内部も細部にわたって復元されていた:

外御書院横の廊下

外御書院横の廊下

鬼瓦は鍋島家家紋である「杏葉」(ぎょうよう)は馬具の飾り物の一種:

本丸御殿の瓦屋根と鬼瓦

本丸御殿の瓦屋根と鬼瓦

天守台の石垣も残っていた。かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。面白いことに、御殿のある本丸から天守台へ登ることはできず、二の丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って上がれるようになっている:

天守台

天守台

天守台と石垣

天守台と石垣

天守虎口

天守虎口

天守虎口を振り返ったところ

天守虎口を振り返ったところ

五層で破風のない実戦向きの天守閣が建っていた

五層で破風のない実戦向きの天守閣が建っていた

佐嘉城の別名は「沈み城」であり、その由来は、八反井樋と今宿江を堰き止めると、天守と本丸の一部を除き、外は城下をはじめ全体が湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む構造になっていたと云われている。その他にも、城下から離れれば離れるほど、天守が楠や松の木に隠れて見えなくなるからという説もあるらしい。享保11(1726)年、四代目藩主の鍋島吉茂の代に、本丸と二の丸と三の丸、そして天守閣が焼失し、その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今に至る。

本丸御殿を出ると、本丸側が土塁で二の丸側が石垣になった西側土塁石垣がある:

西側土塁石垣

西側土塁石垣

西側土塁石垣には、本丸歴史館用に模擬の西門がある:

本丸西門

本丸西門

本丸西門跡から見た外御書院

本丸西門跡から見た外御書院

沼地・湿地帯に築城された佐嘉城の大きな特徴でもある水堀は、幅40間(約70m)もあるとか:

亀甲乱積という手法で積まれた南西隅櫓台(復元)と南側堀。

亀甲乱積という手法で積まれた南西隅櫓台(復元)と南側堀。

最後に、次の目的地へ移動するため本丸歴史館を出てサガテレビ前から佐賀市営バス佐賀城跡線 唐人町・佐賀駅バスセンター行きで佐賀駅前まで移動した(150円)。

See Also佐嘉城攻め (フォト集)

1 個のコメント

  1. ミケフォ

    本丸御殿にある歴史館は、どちらかと言うと幕末・維新時代の佐賀藩や、そこで尽力した偉人たちの展示物が多数あり。佐賀藩10代目の鍋島直正公はなんと蝦夷開拓総督で、初代の開拓使長官だったとか。恥ずかしながら初めて知った我が故郷北海道との縁。そういえば、北海道神宮には佐賀藩士の島義勇の像があったなぁ。彼は札幌市を作り上げた北海道開拓の父とも呼ばれる御仁。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

© 2023 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders Noren先頭へ ↑