徳島県徳島市の徳島城は、秀吉が木下藤吉郎と呼ばれていた頃からの古参である小六こと蜂須賀正勝の嫡男・家政が、天正13(1585)年に吉野川河口に立つ標高約61mの渭山(いのやま)に築いた悌郭式平山城である。もともとは秀吉の側近として常に付き従っていた小六が、四国攻めの取次ぎ後に長曽我部元親に対する抑えとして阿波一国を与えられたものの、自分はいつまでも秀吉の近くで仕えることを希望してこれを辞退し、家政に拝領させたものである。家政は、渭山の山頂に本丸を置き、その周囲に西二の丸、西三の丸と東二の丸を配置して詰城とし、麓には御殿を建てた。築城にあたっては、伊予の小早川隆景や土佐の長曽我部元親、比叡山の僧侶らが協力したと云う。本丸にあった初代の天守は元和期に取り壊されたため、なんと、その後は本丸の一段下にある東二の丸に天守が建てられた。石垣は阿波の「緑色片岩」(りょくしょくへんがん)を用い、特に本丸周囲の高石垣は緑色の石垣になっている。一方、西の丸の石垣は屈折を繰り返し、横矢がかりの工夫が際立つものになっている。徳島城は、その後、藩主の居城として徳島藩のシンボルであったものの、明治時代の廃城令で解体され、さらに太平洋戦争で鷲の門が焼失するなどしたが、現在は市民の善意で鷲の門が再建されたり、見応えのある石垣や庭園などが残っている。
月別: 2015年10月
高知県高知市にある高知城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の功績により土佐一国二十四万石を拝領した山内一豊(やまうち・かつとよ)が入国後に築城した城で、最初は河内中山城(こうちやまじょう)と呼ばれ、次に高智山城と名前を変えたのちに、現在の高知城という名前になった。この城が建つ大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから軍事拠点として利用されていた。そして、戦国末期に四国の覇者となった長宗我部元親は、天正16(1588)年に岡豊城からここ大高坂山に移り築城したが、水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、天正19(1591)年には土佐湾に面した浦戸城に移転している。
山内一豊は大高坂山の山頂に本丸、少し下がったところに二の丸、そして東側の一段下に三の丸を配置した。なお本丸と二の丸を分断する堀切部分には詰門を配置し、南側の廊下門と一体になった縄張になっている。そして、享保12(1727)年の大火で焼失した天守は寛延2(1749)年に三層六階の望楼型天守として再建され、明治時代の廃城令や太平洋戦争の空襲からも逃れ現在に残る、非常に幸運な城となった。また、本丸に国内で唯一、本丸御殿がほぼ完全な形で残っているのも見どころ。
永禄3(1560)年、土佐の戦国大名となる長曽我部元親が初陣として長浜城攻めの本陣を置いた高知県高知市の若宮八幡宮近くに、彼の初陣之像が建っている。この八幡宮で必勝を祈願し戦いに臨んだという。元親はこのとき二十二歳。遅い初陣であったが、父と弟と共に自ら槍を振って突撃するという勇猛さを発揮し、土佐の豪族の一つであり祖父の仇である本山梅慶を打ち破ったという。その年、父の国親が急病で亡くなり、家督を相続する。本山家を圧服して土佐五郡を手に入れ、後に土佐一国を手に入れる。最初は祖父の仇打ちであったが、領土が大きくなるにつれて、四国全体の主になりたいという野望が芽生えてきたのであろう。ちなみに、彼の母は美濃斎藤氏の娘であり、彼の正室は明智光秀の片腕である斎藤利三の妹である。その関係か、彼は大の「信長フリーク」であり、自分の嫡男である与三郎には信長から偏諱を受け信親と名乗らせ、信長の左文字である備前兼光を拝領した。しかし、信長が元親の四国統一を望まず、一転して対立状態になると、信長は三男の信孝と丹羽長秀を四国に派遣して平定しようとしたが、その矢先に本䏻寺の変が勃発し四国平定軍は解散・撤退した。これにより元親は危機を脱することができた。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は周防・長門二カ国の三十七万石に減封(改易)されたが、その一門である吉川広家は本家防衛のために伯耆の米子からここ岩国へ移り、岩国城を築城した。この岩国城は、現在の山口県岩国市にある標高200mほどの要衝・横山の山頂に築いた「横山城」と、その麓に建てた居住地ならびに政務を行うための「御土居(おどい)」という館から構成されていた。これは、戦時には横山城に籠もり、平時は麓の館で生活するという中世の流れを組む典型的な山城である。横山の三方を迂回する錦川が天然の外堀となり、川向うで町割りを行って城下町が形成され、山頂の本丸には四層五階で南蛮造りの天守が建造されいた。しかし、完成からわずか七年後の元和元(1615)年に幕府の一国一城令により、その天守や建物が破却され廃城となった。
広島県広島市にある広島城は、西国の雄である毛利氏が、それまでの拠点だった安芸の吉田郡山城から広島へ本拠地を移した際に築城した輪郭式平城である。これは豊臣政権となって太平の世を迎えたことで、それまでの「戦う山城」から「商を促進する平城」への大きな転換である。制限の多い山間部では本拠地としての繁栄は望めず、また海上交易路を持つ瀬戸内海の水運を活かし、商業を中心とした城下町にするのであれば平野がある海沿いの土地へ移動すべきという考えからで、当時の毛利家第十四代当主の輝元は、天正16(1588)年に豊臣秀吉に謁見した際に大坂城と聚楽第をみて、その豪壮さと繁栄を目の当りのし、郡山城のような山城はすでに時代遅れだと悟ったとされる。しかしながら、その築城は当初の予定から大きく遅れ、完成までに10年を要した。広島の太田川河口の三角州は地盤が弱かったことが大きな原因とされる。完成が慶長4(1599)年で、次の年に起こった関ヶ原の合戦で敗れた輝元は周坊・長門の国へ転封になった。
鳥取県鳥取市にある鳥取城は、天文年間に因幡国(いなばのくに)の守護である山名誠通が久松山(きゅうしょうざん)の自然地形を利用して築いた山城であり、元亀年間の武田高信が城主の時代に主家筋にあたる山名豊国が山中幸盛(鹿之助)ら尼子残党と組んで攻略する。その後、鳥取まで勢力を伸ばしてきた西国の雄である毛利家の吉川元春と、織田家の中国攻略の先鋒である羽柴秀吉との間で起こった衝突のまっただ中に晒されるようになる。この山名豊国(禅高)は臆病人として有名で、その時々で毛利側についたり、織田側につうじたりとしていたため、織田軍に反抗する家来共に鳥取城から追い出され織田家に出奔すると、秀吉は信長の命により鳥取城攻略に本腰を入れる。これが、天正9(1581)年の「渇え殺し」と呼ばれる惨劇を生んだ兵糧攻めとなる 。
佐賀県佐賀市にある「佐嘉城」は、肥前の熊こと龍造寺隆信の居城であった佐嘉龍造寺城(村中城)を、彼の従兄弟であり義弟であり重臣の一人であった鍋島直茂とその子勝茂が拡張して、鍋島佐賀藩36万石の居城となるべく、慶長13(1608)年に普請が始まり3年後に完成した。この城は四方を堀で囲み、平地に築かれた典型的な平城であり、本丸には五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの天守閣が建てられたが、享保11(1726)年の大火災で焼失した後は再建されなかった。それ以外に度重なる火災で本丸や二の丸が焼失しているものの、本丸跡の鯱の門や本丸御殿が再建・復元されている。また天守台とその石垣も残っており、隅檜台の石垣や水堀などを見ることができる。
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