今となっては、これもまた二ヶ月ほど前の城攻めになるけど、自身初めての岡山県上陸という記念すべき日でもあり一層の思い出になった。
今回は、この前の福山城攻め同様に、新幹線は使わずにローカルなJR山陽本線を使った。途中、糸崎という駅で乗り換えてJR岡山駅まで片道3時間程。時間帯によるけど、今回は観光客が尾道で、地元の人らが福山か倉敷で降りてくれたのでずっと座って行けたけど、さすがに腰にきた。まずこの岡山駅は、同じ新幹線が停車する広島なんかよりも活気があって、北は米子や鳥取、南は四国、東は播州姫路と連絡するローカル線がかなり充実しており、まさに中国地方の一大ターミナル的な駅で、いろいろと施設が充実していた。当然ながら初めて見る電車が多く、それらの写真を甥っ子に送るために、いささか興奮してしまった
。特に「快速マリンライナー」を見た時は、是非これで念願の四国上陸を、と思ってみたり:
ちなみに、この岡山駅はこれ以降の城攻めのまさに「ターミナル駅」としていろいろとお世話になることになる。
岡山城
お昼に岡山に到着したあと、そのまま岡山城に向けて移動し、その途中に我がふるさとのローカル番組であるおにぎりあたためますかで紹介されていた「味司 野村」のデミグラソースカツ丼で腹ごしらえした。ちなみに、かっての岡山城は路面電車が通っているこの辺りまで及んでいたものの、明治維新後に今の本丸部分までに縮小されてしまったとか。
それから徒歩15分ほどで旭川沿に岡山城の「真っ黒い」天守がちらりと見えてきた。そのまま本丸の烏城公園に入り、月見櫓の石垣の曲面と石落としに感動しつつ廊下門から入城:
それから表書院を通って不明(あかずの)門から:
本丸本段に入ると、ドーンと鎮座した(復元された鉄筋コンクリート製の)天守閣を拝むことができる:
この時の天守閣では「黒田官兵衛の生きた時代 〜岡山の戦国の世〜」という特別展が開催されていて、そのせいか入場料が800円もした。まぁ、それはそれで見応えのある展示品があったのでよかったが。例えば、備中高松城の水攻めで清水宗治が切腹に使用した小刀とか。
今の岡山城を築いたのは宇喜多直家の実子で、豊臣家五大老の一人でもある秀家。個人的にも中国地方の梟雄と言われた直家は (信長の野望/天下統一フリークの自分にとっては) お気に入りの武将の一人でもあり、秀家はその血統らしく天守閣には隠し扉などいろいろな仕掛けを施していたらしい。また三重構造で五層の天守は安土城にならって築かれたらしく、金箔瓦と金鯱はとても印象的:
個人的には、岡山城の見どころは天守閣の裏側の石垣につきると思う:
多角形の土台に時代の流れを感じる色をした石垣。この石垣は宇喜多氏が築城した時のものと、のちの逆臣である小早川秀秋が手を加えた時のものらしい。ちなみに、次の石垣は関ヶ原の戦後に入城した池田家が補修した時のもの:
岡山城攻め (フォト集)
石垣からも時代を読み取れて楽しい。
備中高松城跡
ここで岡山城をあとにして徒歩でJR岡山駅に向かい、そこから吉備線で20分ほどのところある備中高松駅まで移動する。この時の移動で乗った総社行きの電車が、これまた黒田官兵衛がらみ:
羽柴秀吉の水攻めで有名な高松城跡は、JR備中高松駅から徒歩で20分くらい。城跡というものは既に無く、今は高松城址公園という憩いの場になっているが、一応資料館や立て看板、高松城城主の清水宗治ゆかりの石碑などが存在していた。ただ、この資料館は15:00までらしく、自分が到着した時は10分遅れで中に入れなかった。休日だし大河ドラマで盛り上がっている時期なのだからもう少し考えてもらいたいものだ:
清水宗治公の首塚
歴史を学べる立て看板と、和睦のため城中の命と引き換えに(秀吉曰く)あっぱれな切腹をした清水宗治を供養する首塚:
まぁ水攻めは黒田官兵衛が進言した策というし、秀吉本人も本䏻寺の変で明智を討つために早急にまとめなかければならない和睦ももちろん官兵衛が絡んでいて間違いないだろうとのこと。天守閣や石垣は無いものの、なんとも戦国の世の厳しさを感じ取れる場所だった。
備中高松城攻め (フォト集)
いや〜、英語のタイトルがずっと「Bitchū Matsuyama」になっていた・・・。お恥ずかしい。