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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

日本の古城・古戦場マップ − Map of Castles in Japan

これは、本サイトで記録した日本の古城と古戦場、そして武将・勇将らの墓所や菩提寺などの訪問記と、オリジナル・フォト集のリンクを地図上に配置したものです:

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高槻城 − Takatsuki Castle

高槻城の模擬天守台は本丸跡ではなく弁財天郭跡に建っていた

戦国時代は大永7(1527)年に起こった管領家・細川氏[a]足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。の内紛は摂津国にある足利幕府の諸城を巻き込んで桂川原の戦と呼ばれる乱[b]細川氏の家督継承を巡る内紛とした両細川の乱、あるいは永世《えいしょう》の錯乱に総称される乱の一つ。になったが、丹波国の波多野秀忠《はたの・ひでただ》[c]丹後国の名族であり室町幕府の評定衆の一人であった波多野稙通《はたの・たねみち》の嫡子。波多野氏の最後の当主・秀治《しげはる》は孫にあたる。の軍勢に追われるように摂津国守護で山崎城主であった薬師寺国長《やくしじ・くになが》が逃れてきたのが高槻入江城[d]入江氏は、足利尊氏の従者の一人で駿河国出身の入江左近将監春則《いりえ・さこんしょうげん・はるのり》を祖とし、直系は「入江」を、庶子は「高槻」を称した在地勢力の一つ。であったと云う。これが記録として初めて確認できる高槻城とされる。さらに永禄11(1568)年に織田信長が足利義秋[e]義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。を擁して上洛した際に高槻城は開城し、翌年には義秋の側近の一人・和田惟政《わだ・これまさ》が城主となり[f]足利義秋からは池田城主・池田勝正《いけだ・かつまさ》、伊丹城主・伊丹親興《いたみ・ちかおき》と共に摂津守護の一人に任命されている(摂津三守護)。、天主を建てて堀を巡らすなど大きく改修された。その後、高山右近《たかやま・うこん》[g]諱は重友。諱は他に友祥《ともなが》も。「エスト」または「ジュスト」と云う洗礼名を持つ切支丹大名の一人であり、利休七哲《りきゅうしちてつ》の一人しても有名。が城主だった天正年間、そして江戸時代に入って元和年間にも改修されて近世城郭となった。明治4(1871)年の廃藩置県で廃城になると石垣などは鉄道建設の資材となり、城跡に旧陸軍が駐屯するなどした。戦後は宅地化が進んだが、現在は城跡を位置づけるものとして大阪府高槻市城内町3に高槻城公園[h]自分が城攻めした当時は「城跡公園」という名前だった。がある。

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a 足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。
b 細川氏の家督継承を巡る内紛とした両細川の乱、あるいは永世《えいしょう》の錯乱に総称される乱の一つ。
c 丹後国の名族であり室町幕府の評定衆の一人であった波多野稙通《はたの・たねみち》の嫡子。波多野氏の最後の当主・秀治《しげはる》は孫にあたる。
d 入江氏は、足利尊氏の従者の一人で駿河国出身の入江左近将監春則《いりえ・さこんしょうげん・はるのり》を祖とし、直系は「入江」を、庶子は「高槻」を称した在地勢力の一つ。
e 義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。
f 足利義秋からは池田城主・池田勝正《いけだ・かつまさ》、伊丹城主・伊丹親興《いたみ・ちかおき》と共に摂津守護の一人に任命されている(摂津三守護)。
g 諱は重友。諱は他に友祥《ともなが》も。「エスト」または「ジュスト」と云う洗礼名を持つ切支丹大名の一人であり、利休七哲《りきゅうしちてつ》の一人しても有名。
h 自分が城攻めした当時は「城跡公園」という名前だった。

高遠城 − Takatō Castle

高遠城の本丸虎口に残る石垣は内藤氏の近世時代のもの

長野県伊那市高遠町東高遠にある高遠城址公園はかっての高遠城[a]別名は渭山《いすい》城、または兜山城とも。跡で、戦国時代初めに信濃国諏訪郡一帯を治めていた諏訪家一門の高遠頼継《たかとお・よりつぐ》の居城であった。そして天文10(1541)年、甲斐国の新しい主となった武田晴信は頼継と共に諏訪郡へ侵攻[b]頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。しこれ平定するが、もともと諏訪家惣領になりたがっていた頼継は若い晴信を侮ってのちに兵をおこし武田の守兵を追い払うと諏訪の上・下両社を手に入れた。怒った晴信は天文13(1544)年に頼継を一戦に打ち破って伊那郡を平定すると、山本勘助と秋山虎繁[c]諱《いみな》として有名なのは「信友《のぶとも》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。に命じて伊那谷における拠点として高遠城を改修させた。さらに永禄5(1562)には晴信と諏訪御料人との間に生まれた四郎勝頼が城主となるが、元亀4(1573)年に晴信(信玄)が没し、天正3(1575)年には長篠設楽原合戦で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗、そして信長らによる甲州征伐が始まると高遠城は最終防衛拠点として勝頼の異母弟である仁科五郎盛信が入城し寡兵で織田の大軍を迎え撃った。

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a 別名は渭山《いすい》城、または兜山城とも。
b 頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。
c 諱《いみな》として有名なのは「信友《のぶとも》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。

武田信玄公墓所 − Raise our Flag on Seta Tomorrow(TAKE2)

甲州市の塩山駅には不世出の英傑と云われた武田信玄公の像がある

元亀4(1573)年4月12日[a]新暦だと同年5月13日。に信濃国は三州街道《さんしゅうかいどう》[b]のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。の駒場[c]現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。で甲斐の武田信玄が没した。享年53。臨終に瀕して昏睡状態だった信玄はいきなり山縣昌景を呼びつけ、「其の方、明日は瀬田[d]近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。に旗を立てよ」と命じたと云う。これが公の最後の下知とされる。後世には「甲斐の虎」とも「戦国の巨星」とも呼ばれた信玄は、往時は第一流の戦上手であったと共に産業の奨励、治水・池溝《ちこう》の整備など政治家としてもまた卓抜した武将であったことは、没後450年以上たった現代でも広く知られているところである[e]現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。。甲斐武田氏は「武士」の先祖にあたる八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光《しんら・さぶろう・よしみつ》[f]河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。の末孫にあたるが、その流れは甲斐守に任じられた義光がその国で二男・武田冠者義清《たけだのかんじゃ・よしきよ》[g]逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。を授かり、義清の子から数代あって信義が甲斐武田氏の祖となった。甲斐武田氏が盛んになったのは信義から数えて十四代目の信虎からであり、その嫡男が晴信ことのちの信玄である。

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a 新暦だと同年5月13日。
b のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。
c 現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。
d 近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。
e 現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。
f 河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。
g 逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination(TAKE2)

龍穏寺の境内には太田道灌公五百忌の砌《みぎり》に建立された銅像が建つ

埼玉県入間郡の越生《おごせ》町龍ヶ谷452-1にある曹洞宗の長昌山龍穏寺《ちょうしょうさん・りゅうおんじ》[a]寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。は、桓武天皇[b]第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。在位の平安時代に修行僧らの信仰を集めて建立されたのが始まりとされる。そして室町時代には足利幕府六代将軍の義教《よしのり》が開基となり、相模国守護で扇ヶ谷上杉家当主の持朝《もちとも》が再建した。ときは戦国時代前で関東騒乱の時代。二人の公方[c]堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。を取り持つ関東管領や地方武士らの対立が長く続いていた時代である。持朝が死去したあと、扇ヶ谷上杉家の家宰[d]家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。を務めていた太田資清《おおた・すけきよ》とその嫡子・資長《すけなが》が亡き主人の遺徳を継ぎ、戦乱の最前線で廃寺寸前だった龍穏寺を中興し、新たに堂宇を建立したと云う。のちの太田道真・道灌父子である。文明18(1486)年、道灌は自得軒[e]越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。で隠居していた父のもとを訪ねて詩会を楽しんだが、その翌月に主人の上杉定正《うえすぎ・さだまさ》[f]上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。に暗殺された。享年55。死に際に『当方滅亡』と言い遺したと云う。

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a 寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。
b 第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。
c 堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。
d 家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。
e 越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。
f 上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。

土気城 − Toke Castle

難攻不落と知られた土気城の搦手には高い切通しを持つクラン坂がある

奈良時代は神亀《じんき》年間(724〜729年)[a]この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。に鎮守府将軍の大野東人《おおの・の・あずまびと》が蝦夷[b]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。の侵入に備えて陸奥国に多賀柵[c]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。を、そして上総国に貴船城《きふね・じょう》なる城砦[d]本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。を築いたと云う。この城は、室町時代に入ると相馬胤綱《そうま・たねつな》[e]千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。の家臣・土気三郎が土気荘園の地頭に任じられて入城し[f]これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。土気城と呼ばれた。その後は大関城の畠山重康《はたけやま・しげやす》[g]鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。が居城としたが、長享元(1487)年に中野城の酒井定隆《さかい・さだたか》[h]上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。が攻め落として城を再興し改修した。それから五代約100年に亘って土気酒井氏の居城となる[i]子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。。そして、戦国時代は永禄7(1564)年の国府台合戦[j]通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。で、それまで北條氏康麾下で各地を転戦していた土気城主の酒井胤治《さかい・たねはる》が突如、里見方に寝返った[k]一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。。怒った氏康は、胤治とは同族である東金酒井胤房《とうがね・さかい・たねふさ》と、戦場では友軍として共に戦った臼井城の原胤貞《はら・たねさだ》らを土気城攻めに差し向けた。

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a この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。
b 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。
c 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。
d 本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。
e 千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。
f これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。
g 鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。
h 上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。
i 子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。
j 通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。
k 一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。

雉ヶ岡城 − Kijigaoka Castle

雉ヶ岡城の南ノ郭南側にある土塁は上下二段の構造になっていた

埼玉県本庄市児玉町八幡山446にある城山公園は、戦国時代初期に関東管領職[a]幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。に就いていた山ノ内上杉家八代当主・憲実《のりざね》の居城として築かれた雉ヶ岡城[b]あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。跡である[c]もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。。しかし城域が狭く守り難いことから、憲実は上野国の上州平井城を居城とし、この城は家臣の有田豊後守定基《ありた・ぶんごのかみ・さだもと》[d]こののちに「夏目」姓を名乗った。に与え、交通の要衝であった鎌倉街道の押さえとした。こののち相模・伊豆二ヵ国を平定し、ここ武蔵国へも積極的に手を伸ばしていた新興勢力・小田原北條氏の圧迫を受け、天文15(1546)年の河越夜戦《かわごえよいくさ》[e]合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。以後は北條氏の傘下に入って鉢形城の支城となった。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、加賀の前田利家、越後の上杉景勝らが率いる北国口勢が攻囲して開城させたと云う。仕置後は関八州を拝領した徳川家康の家臣・松平清宗《まつだいら・きよむね》が入城するも、慶長6(1601)年に嫡男の家清[f]竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。の代で三河国吉田城に転封され、雉ヶ岡城は廃城となった。

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a 幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。
b あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。
c もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。
d こののちに「夏目」姓を名乗った。
e 合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。
f 竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。

韮山城 − Nirayama Castle

伊勢宗瑞が伊豆国統治の拠点として龍城山に築いたのが韮山城(本城)である

伊豆半島北部に広がる田方《たがた》平野の東部に位置し、箱根山から天城山《あまぎさん》に至る山並みの中にあって独立丘の一つである天ヶ嶽《てんがだけ》[a]天ヶ岳または天狗岳とも。を中心とする尾根一帯に築かれていた韮山城跡は、はじめは応仁の乱後の文明年間(1469〜1487年)に伊豆国堀越《いずのくに・ほりごえ》[b]現在の静岡県伊豆の国市。を拠点とした堀越公方《ほりこしくぼう》・足利政知《あしかが・まさとも》[c]本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《きょうとくのらん》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。の筆頭家老・外山豊前守の城館[d]居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。であったと云う。政和死後に起こった兄弟間の内紛[e]長男の茶々丸《ちゃちゃまる》が、嫡男で三男の潤童子《じゅんどうじ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。では室町幕府十一代将軍・足利義澄《あしかが・よしずみ》[f]足利政知の次男。が、当時は興国寺城主であった伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[g]延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、その後は出家して早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。に命じて堀越公方となった茶々丸を追放した[h]宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。。この功により韮山の城館を手にいれた宗瑞は、伊豆国支配の足がかりとして本格的な城郭の造営に着手、天ヶ嶽北西に連結する龍城山に韮山城を築いた。宗瑞は、その後も勢力を拡大し小田原城を奪取して嫡男・氏綱の居城とするも、自らは永正16(1519)年に死去するまで、ここ韮山城を居城とした。

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a 天ヶ岳または天狗岳とも。
b 現在の静岡県伊豆の国市。
c 本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《きょうとくのらん》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。
d 居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。
e 長男の茶々丸《ちゃちゃまる》が、嫡男で三男の潤童子《じゅんどうじ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。
f 足利政知の次男。
g 延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、その後は出家して早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。
h 宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。

足利氏館 − Fortified Residence of the Ashikaga Clan

足利氏の氏寺である国宝の鑁阿寺には足利二つ引紋が掲げられていた

栃木県足利市家富町2220にある鑁阿寺《ばんなじ》とその周辺の敷地は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》から数えて三代目の源義康《みなもとの・よしやす》[a]父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。が平安時代の末期に、ここ下野国足利荘[b]現在の栃木県足利市にあった荘園。に下向して自らの邸宅に堀と土居を築いて居館としたのが始まりとされる[c]これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。。この時、自らは足利氏[d]足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。を名乗る一方で、兄の義重《よししげ》は新田氏の祖となった。そして義康の子・足利義兼《あしかが・よしかね》が発心得度して邸宅内に大日如来を本尊とする持仏堂を建立し、足利氏の氏寺《うじでら》とした。また、その子で三代目当主の足利義氏《あしかが・よしうじ》[e]戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。は父の死後に本堂を建立したが安貞3(1229)年に落雷で焼失した。その後、本堂は足利尊氏の父で、七代目当主である足利貞氏《あしかが・さだうじ》により禅宗様式を取り入れたものに再建された。これが現在の真言宗大日派・鑁阿寺の本堂にあたり、大正11(1922)年には国指定史跡[f]本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。に、さらに平成25(2013)年に本堂が国宝に指定された。

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a 父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。
b 現在の栃木県足利市にあった荘園。
c これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。
d 足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。
e 戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。
f 本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。

滝山合戦と廿里古戦場 − The Siege of Takiyama Castle

2万の軍勢で滝山城を包囲した武田信玄は拝島大日堂に本陣を置いたと云う

関東で越後の上杉政虎[a]のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。と攻防戦を繰り広げていた小田原の北條氏康は、甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。の誼で、甲斐の武田信玄による信濃国での軍事行動で政虎を牽制することに成功、これによって政虎が越後へ帰国するや反撃を開始し上杉方についていた国衆らを従属させ、河越城まで後退していた勢力圏の回復に務めた。氏康もまた信玄の要請に応じ、北條綱成らを川中島合戦の援軍として派遣するなど、同盟の一翼を担っていた駿河の今川義元亡きあとも[c]永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。両国の関係は悪くはなかった。しかし永禄11(1568)年に信玄が三河の徳川家康と共に駿河今川領へ侵攻すると、氏康は相駿同盟[d]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視して信玄に対抗した。翌12(1569)年、信玄は伊豆に駐屯する氏康らを牽制すると、2万の軍勢を率い上野国の碓氷峠を越えて武蔵国へ侵攻、鉢形城を包囲した後に南進して滝山城と多摩川を挟んだ拝島に着陣した。一方、城主・氏照が守備を北側に集中している間、信玄が送り込んだ別働隊が甲斐国の郡内より小仏峠を越えて城の南西から静かに近づいていた。

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a のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。
b 善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。
c 永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。
d 氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。

武蔵滝山城 − Takiyama Castle(TAKE2)

滝山城の本丸と中の丸の間にある大堀切には木橋が架かっていた

東京都八王子市高月町から丹木町三丁目までの敷地を有する都立滝山公園は多摩川に面した加住《かすみ》丘陵上にあり、今から500年前の大永元(1521)年に武蔵国の守護代を務めていた大石氏[a]元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。が築いたと伝わる滝山城跡[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。にあたる。滝山城は、こののち関東管領上杉氏を駆逐した小田原北條氏康の三男・氏照[c]別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。の居城となり、北の多摩川と南の谷地川に挟まれるように続く東西およそ900mの天然の要害として拡張が繰り返された平山城で、現在でも北條流築城術[d]曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。を随所で伺うことができる城跡である。また近年の研究では、永禄4(1561)年に越後国の上杉輝虎[e]云わずと知れた、のちの上杉謙信率いる越軍が小田原北條氏の居城である小田原城を攻めた際に滝山城下[f]滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。で攻防戦があったと云う記録がないことから、氏照ははじめ浄福寺城(由井城)を拠点とし、このときの教訓から越軍や甲軍らを監視するために小田原城の支城として新たに築いたのが滝山城と云う説がある。昭和26(1591)年に国史跡に指定され、現在は都とNPO法人の有志らによって整備保全が行われている。

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参照

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a 元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。
c 別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。
d 曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。
e 云わずと知れた、のちの上杉謙信
f 滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。
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