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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

日本の古城・古戦場マップ − Map of Castles in Japan

これは、本サイトで記録した日本の古城と古戦場、そして武将・勇将らの墓所や菩提寺などの訪問記と、オリジナル・フォト集のリンクを地図上に配置したものです:

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仙臺城 − Sendai Castle

仙臺城の本丸北壁には伊達政宗が築いた時代を含む三つの異なる時期の石垣が遺っていた

関ヶ原の戦が終わった慶長5(1600)年、『独眼竜』の異名を持つ伊達左京大夫政宗《だて・さきょうたゆう・まさむね》が、広瀬川西岸の切り立った段丘上に築かれていた城跡[a]千体城、または千代城。国分《こくぶん》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。に、二年余の歳月をかけて築いた山城が仙臺城[b]これは旧字体で読みは「せんだい・じょう」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。である。それ以降13代270年にわたって伊達氏の居城となり、仙臺藩の政庁が置かれた。初代藩主である政宗は大規模な工事を敢行して青葉山に石垣と土塁で防備した本丸を築き[c]同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ひがしまる》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《にしまる》」。、東と南は広瀬川と竜ノ口《たつのくち》渓谷の断崖、西が険しい青葉山と御裏林《おうらばやし》に囲まれたまさに天然の要害であったが、徳川幕府による泰平の世にはもはや時代遅れの城郭であり、二代藩主・忠宗《ただむね》の時代には平地に二ノ丸を造営して藩政の中心とし、急峻で幾度も折れ曲がる従来の大手道を廃止し、二ノ丸に大手門を築いて新たな登城道が整備された。ここで仙臺城は中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変貌した。明治4(1871)年に廃城となり、その後の火災や地震、米軍による仙台空襲によって城郭及び建造物の多くが焼失した。平成15(2003)年には国史跡に指定され、現在は宮城県仙台市青葉区川内1-2の仙台城跡として整備されている[d]平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。

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a. 千体城、または千代城。国分《こくぶん》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。
b. これは旧字体で読みは「せんだい・じょう」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。
c. 同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ひがしまる》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《にしまる》」。
d. 平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。

多賀柵/多賀城 − Taga Castle

多賀柵跡の正門・外郭南門からは政庁まで真っ直ぐに延びた南大路が残っていた

宮城県多賀市市川にある多賀城跡は、天平9(737)年に「多賀柵《たがさく》」[a]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。として初めて『続日本紀[b]平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。』に登場し、以降その他の史書では「多賀城」と記されていた。この城は、奈良時代に陸奥国の国府及び鎮守府《ちんじゅふ》が置かれた行政と軍事の拠点の一つで、神亀元(724)年に大和朝廷の命を受けた大野東人《おおの・あずまひと》が蝦夷[c]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。勢力との境界線で、松島方面から南西に伸びる低丘陵の先端に位置し仙台平野を一望できる、ここ多賀に築いたのが始まりとされる。不整形な方形の外郭には築地《ついじ》[d]土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。を巡らし、中央部に政務や儀式を行う政庁が建ち、その周囲には行政実務を担う役所や兵舎、工房などが併設された。天平宝字6(762)年には藤原南家の四男・朝狩《あさかり》が改修し、城外には道路で区画された町並みが形成された。しかし宝亀11(780)年には伊治呰麻呂《これはり・の・あざまろ》の反乱により城は焼失、後に復興されたが貞観11(869)年に大地震が発生して建物は全て倒壊するも、これも再興した。最後は室町時代の南北朝争乱で落城し廃城となった。大正11(1922)年に国史跡に、そして昭和41(1966)年には特別史跡に指定され、現在に至る。

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a. 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。
b. 平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。
c. 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。
d. 土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。

滝の城 − Takino Castle

滝の城の二の郭と外郭との間には逆L字型の中堀が残っていた

柳瀬川とその支流の東川《あずまがわ》が合流して出来た段丘端に築かれ、天然の外堀である柳瀬川に面した南側は急崖、北側は三重の堀と土塁によって守られた滝の城は、室町時代末期に関東管領・山内上杉氏の家臣で武蔵国守護代の大石氏[a]のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。が、居城である滝山城に対する支城として築いたと云う説の他、扇ヶ谷《おおぎがやつ》上杉氏の家宰・太田道灌江戸城河越城を結ぶ清戸道《きよとみち》[b]江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。の間に築いた「つなぎの城」と云う説もある。道灌死後の戦国時代初期には伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[c]伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。とその一族が、ここ武蔵国へ侵攻し、天文6(1537)年に三代目当主・北條氏康が河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で両・上杉氏と古河公方らに勝利すると、滝の城は滝山城とともに氏康の三男・氏照の支配下に入った。その後、滝の城は反北條氏を掲げた太田三楽斎《おおた・さんらくさい》らが籠もる岩付城に対する境目の城として北條流築城術で改修された。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の際、豊臣方の浅野長吉《あさの・ながよし》[d]のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。勢に攻められて一日で落城し廃城となった。現在は埼玉県所沢市大字城23-1番にて滝の城址公園の一部が整備・保存されている。

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a. のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。
b. 江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。
c. 伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。
d. のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。

前橋城/厩橋城 − Maebashi AKA Mayabashi Castle

古くは厩橋城、のちの前橋城本丸跡には群馬県庁が建ち、その脇に土塁が残っていた

群馬県前橋市大手町で一際目立つ群馬県庁舎の周辺一帯は、かって征夷大将軍・徳川家康が関東七名城[a]内訳は河越城忍城唐澤山城、太田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。の一つとして『関東の華』と賞した前橋城跡であり、古くは群雄割拠の時代には厩橋城《まやばしじょう》[b]読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥 と呼ばれていた。15世紀末に西上野《にし・こうずけ》の国人衆であった長野氏が拠点としていた箕輪城の支城[c]石倉城とも。が始まりとされる。越後上杉氏、甲斐武田氏、そして小田原北條氏らが関東の覇権を争った戦国の世には、ここ厩橋城の争奪戦が幾度となく繰り広げられた。特に関東管領職に就いた上杉政虎[d]云わずと知れた、のちの上杉謙信。は、この地の静謐を旗印に越後の精兵を引き連れて越山するための拠点とした。のちに武田氏と北條氏の支配下に入り、この両雄が去ったあと、関八州《かんはっしゅう》に入封した家康が譜代の重臣らを城主に置いた。城は元和3(1617)年に大改修が施され、利根川河岸の急崖に臨む本丸を幾重もの郭で囲み、三層三階の天守を建てるなど近世城郭に変貌した。のちに前橋城と改称するも、『坂東太郎』の異名を持つ利根川の氾濫と侵食により一時は廃城になる[e]度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。が、幕末には再建[f]治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。されるも四年後の明治4(1871)年の廃藩置県で二度目の廃城となった。

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a. 内訳は河越城忍城唐澤山城、太田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。
b. 読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥
c. 石倉城とも。
d. 云わずと知れた、のちの上杉謙信。
e. 度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。
f. 治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。

高崎城/上野和田城 − Takasaki AKA Wada Castle

和田城のあとに築かれた高崎城跡には土塁と乾櫓・東御門が残るのみである

鎌倉時代に上野国の国人であった和田氏[a]鎌倉幕府の御家人の一人和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。がかって築いた砦はのちに和田城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。と呼ばれ、約160年の間、和田家の居城となった。和田業繁《わだ・なりしげ》が城主であった室町時代には関東管領・山内上杉氏に従属し古河公方や小田原北條氏、そして甲斐武田氏らと対立した。主人である上杉憲政《うえすぎ・のりまさ》が越後国の長尾景虎を頼って落ちたあとは、義父で箕輪城主の長野業政《ながの・なりまさ》に従って西上野の国人衆らと共に和田城を含む多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で上杉・北條・武田らを相手に対抗した。しかし業政死後は武田信玄に降伏・従属し、長篠城包囲戦で業繁が討ち死にするとその子・信業《のぶなり》は小田原北條氏に下り家臣として重用された。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で和田城は北国勢[c]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。の攻撃により落城し廃城となった[d]信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。。この後に関八州へ入封した徳川家康の重臣・井伊直政がこの城跡に近世城郭を築いた。これが群馬県高崎市高松町1にあった高崎城である。しかし現在は宅地化が進み、三ノ丸外囲《さんのまる・そとがこい》の土居と水濠、そして復元された東御門や乾櫓が移築されているだけであった。

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a. 鎌倉幕府の御家人の一人和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。
b. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。
c. 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。
d. 信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。

山形城 − Yamagata Castle

山形城本丸跡に石垣・大手橋・高麗門・櫓門からなる一文字門が一部復元された

山形県山形市霞城《かじょう》町1番7号にある霞城公園は、市内の中心部にあって馬見ケ崎川《まみがさきがわ》西岸に広がる扇状地北端に築かれていた羽州探題職《うしゅう・たんだいしき》[a]室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。・最上氏の居城であり、のちに山形藩庁がおかれた山形城である。この城の起源は初代・羽州探題であった斯波兼頼《しば・かねより》が延文元(1356)年に出羽国最上郡山形に入部して築いた館であり、このとき室町幕府により許されて「最上屋形《もがみ・やかた》[b]「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。」と称すようになったのが最上氏の始まりとされている。近世城郭としての原型は、第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主である最上義光《もがみ・よしあき》が文禄から慶長期(1592〜1615年)に拡張したもので、この時に本丸・二ノ丸・三ノ丸が築かれ、三重の堀と土塁が巡らされた輪郭式平城が完成した。のちに藩主となった鳥居忠政《とりい・ただまさ》[c]徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《とりい・もとだた》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。は元和8(1622)年に現在公園で見ることができる二ノ丸の堀や石垣などを整備した他、明和4(1767)年には藩主・秋元涼朝《あきもと・すけとも》[d]幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。が三ノ丸に御殿を新造した。明治3(1870)年に廃城、そして昭和24(1949)年に本丸と二ノ丸が公園として市民に開放された。

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a. 室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。
b. 「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。
c. 徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《とりい・もとだた》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。
d. 幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。

米沢城 − Yonezawa Castle

米澤藩上杉氏の居城である米沢城本丸跡には謙信公を御祭神とする上杉神社が建つ

米沢城は、鎌倉時代に出羽国は置賜《おきたま》郡長井庄の地頭であった長井時広《ながい・ときひろ》[a]征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人で幕府創設に貢献した大江広元《おおえ・の・ひろもと》の次男。奥州藤原氏討伐の功により長井庄の地頭となった。が居館を置いたのがはじまりと伝えられ、室町時代に入ると伊達氏八代当主・宗遠《むねとお》が長井氏八代当主・広房を滅ぼし、天文17(1548)年には伊達氏十五代当主・晴宗が父・稙宗《たねむね》との骨肉の争い中に居城を移して城郭化した。そして伊達氏十七代当主でここ米沢城生まれの政宗が、天正19(1591)年に関白秀吉による奥州仕置で岩出山《いわでやま》城へ移つされるまで伊達氏十代212年の本拠地であった。その後は慶長3(1598)年まで蒲生飛騨守氏郷の筆頭家老・蒲生郷安《がもう・さとやす》が城主をつとめた。氏郷が急死したあとに會津120万石を賜った五大老の上杉権中納言景勝は上杉家の執政を務めた直江山城守兼続を城主においた。しかし秀吉死後に同じ五大老の一人である徳川家康との関係が悪化し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後には徳川幕府より米沢30万石に減封され、ここ米沢城が明治維新まで米澤藩[b]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉氏の居城となった。現在、本丸跡の山形県米沢市丸の内1丁目4の松が岬《まつがさき》公園には上杉神社が建っている。

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a. 征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人で幕府創設に貢献した大江広元《おおえ・の・ひろもと》の次男。奥州藤原氏討伐の功により長井庄の地頭となった。
b. 本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。

米澤藩上杉家御廟と林泉寺、そして善光寺 − Some mausoleums related in the Yonezawa-Domain Uesugi Clan

米沢城に眠る謙信公の霊柩が万が一の事態になったら避難させる場所に上杉家御廟がある

山形県米沢市御廟1丁目にある米澤藩主[a]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉家御廟は、藩祖で越後国春日山にて関東管領職を務めた不識院謙信《ふしきいん・けんしん》[b]云わずと知れた上杉謙信。公の御遺骸《ごいがい》をはじめとする歴代藩主の廟が杉木立《すぎこだち》の中に整然と立ち並び、森厳《しんげん》とした雰囲気に満ちた墓所として知られている。元々は公の霊柩が安置された米沢城本丸で大事が発生した場合に、その霊柩を一時的に退避させるために用意されていた場所であったが、元和9(1623)年に逝去《せいきょ》した初代米澤藩主・上杉権中納言景勝《うえすぎ・ごんちゅうなごん・かげかつ》公の御遺骸が埋葬されて以降は十一代に渡って米澤藩主が埋葬され、御霊屋《おたまや》の前には御廊下と拝殿が建ち、寄進された千基を越える石灯籠が並べられていた。それから明治6(1873)年の廃城令で米沢城本丸跡から改めて不識院謙信公の霊柩がこの場所に遷座されると、それに伴って拝殿や多数の石灯籠が撤去された上に参道も造り替えるなどして、現在観ることができる景観になったとされる。そして本御廟は昭和59(1984)年には全国の大名家墓所としては五番目となる国指定史跡に登録された。

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a. 本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。
b. 云わずと知れた上杉謙信。

白石城 − Shiroishi Castle

白石城本丸跡に復元された天守はかって幕府をばばかり「大櫓」と呼んでいた

西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷(ふじわら・の・ひでさと)[b]平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清(ふじわら・の・つねきよ)の次男・刈田常元(かった・つねもと)が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成(がもう・げんざえもん・さとなり)を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。

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a. 読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。
b. 平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。

陸奥福嶋城 − Fukushima Castle

現在の福島県庁の入口にあたる県庁通りが、かっての福島城の大手門跡である

福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。

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a. 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。
b. 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。
c. 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。
d. 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。
e. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。
f. 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。
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