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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

日本の古城・古戦場マップ − Map of Castles in Japan

これは、本サイトで記録した日本の古城と古戦場、そして武将・勇将らの墓所や菩提寺などの訪問記と、オリジナル・フォト集のリンクを地図上に配置したものです:

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横須賀城 − Yokosuka Castle

城内に船着場を持つ横須賀城本丸南下は大井川の河原石を用いた玉石垣造りだった

今から400年以上も前の天正3(1575)年、織田信長・徳川家康らの連合軍38千は三河国の設楽原付近[a]現在の愛知県新庄市長篠にあたる。で武田勝頼が率いる騎馬軍15千と決戦を行い(長篠・設楽原の戦)、これに勝利した。これを機に、家康はその前年に無念にも甲斐武田の手に陥ちた高天神城の奪還に向けて準備を開始した。しかしながら長篠の戦で惨敗し多くの重臣・将兵を失った勝頼ではあったが、その強力な甲州騎馬軍団は依然として侮りがたく、家康だけで[b]おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。一気に力攻めするようなことはせずに、足掛け二年もの時間をかけて[c]この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。、まずは高天神城の周囲にある武田方の城や砦を一つづつ取り戻し、その上で周囲に六つもの附城を築き、高天神城への人的・物的補給路を完全に遮断して兵糧攻めによる攻城戦を選択した。その附城の一つとして家康の命を受けた大須賀康高が、馬伏塚(まむしづか)砦に続いて天正6(1578)年から築いた横須賀城は、現在の静岡県掛川市大渕にある。この城は、高天神城からおよそ6㎞という距離にあり、城の南側が遠州灘の入江となっているため船着場を持ち、さらに西と東にそれぞれ大手門を持つ両頭城で、高天神城攻めの軍事拠点として、そしてその周囲にある各砦の兵站拠点として活用されることになった。

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a. 現在の愛知県新庄市長篠にあたる。
b. おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。
c. この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県掛川市上土方嶺向(しずおかけん・かけがわし・かみひじかた・みねむかい)にある高天神城は、小笠山(おがさやま)から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山(かくおうざん)を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠州を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田四郎勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

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a. 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b. 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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a. 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

杉山城 − Sugiyama Castle

鎌倉街道を見下ろす丘陵に築かれた杉山城南二の郭と南三の郭は屏風折れの切岸と堀を持つ

埼玉県比企郡嵐山(さいたまけん・ひきぐん・らんざん)町にある杉山城は、(旧)鎌倉街道を見下ろす丘陵の山頂に築かれた本郭を中心に、北・南・東の三方の尾根上に複数の郭(くるわ)を配した連郭式平山城である。総面積は約80,000㎡にも及び、丘陵の高低差を利用して巧みに築かれた縄張は、市野川を外堀としたまさに自然の要害と呼ぶに相応しい県内でも屈指の名城として評価されているが、この城の築城年代や築城主については現在[a]城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。でも不明である。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、横矢掛かりを仕掛けるための複合的な虎口、馬出として利用していた郭など、現存する遺構の保存状態は良好で、その技巧的な城構えからは戦国時代後期の小田原北条氏によるものとされていたが、近年は発掘された土器や陶磁器といった遺物の製造年や近隣の武州松山城の存在の他に、同時代とする山中城などに見られた北条流築城術の特徴が無いことから、戦国時代初期の関東管領山内上杉氏とする説が有力となった[b]本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。。しかし、依然として出土遺物だけで年代を確定するのは説得力が乏しいとされ、縄張や虎口の類似性、築城技術の差などから後北条氏によるものとする主張も多く、今もなお『杉山城築城の謎』として物議を醸している。

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a. 城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。
b. 本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。

武蔵松山城 − Musashi Matsuyama Castle

比企丘陵の先端に築かれた松山城は市野川の急流で削り取られた急峻な崖地を利用した平山城である

今から620年以上前の応永年間初期に扇ヶ谷上杉氏家臣の上田友直が、それまでの砦から本格的な城に仕上げたのが始まり[a]この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。とされる埼玉県は比企郡吉見町にある武州松山城は、市野川が形成した広大な湿地帯に突き出す比企丘陵東端に築かれていた連郭式平山城である。15世紀後半に京都で起こった応仁の乱が全国に飛び火し、ここ関東でも長年の間、関東管領と古河公方、そして地侍らを巻き込んだ戦乱期が続いていたが、室町時代後期に相模国から伊勢新九郎率いる新興勢力(のちの小田原北条氏)の台頭が著しくなると、旧体勢力側に「回されてしまった」扇ヶ谷と山内両上杉氏、そして古河公方らは「敵の敵は味方」の理のごとく合力して対抗するようになった。それまで武蔵国中原の要衝として幾多の争奪戦が展開されたここ武州松山城もまた伊勢氏に抗する拠点となった。天文6(1537)年に扇ヶ谷上杉家当主の朝興(ともおき)が河越城で病死すると、関東制覇を強力に推し進める伊勢氏綱・氏康親子は河越城を奪取、総崩れとなった上杉勢は武州松山城に退却した。氏綱は手綱を緩めることなく追撃するが、城代・難波田憲重(なんばだ・のりしげ)らの奮戦で撃退[b]この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。されると、武州松山城は扇ヶ谷上杉氏の居城となった。

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a. この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。
b. この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。

本佐倉城 − Moto Sakura Castle

半島状台地上に築かれた本佐倉城は三方が湿地帯に囲まれた要害だった

千葉県の印旛郡酒々井(いんばぐん・しすい)町にある本佐倉城[a]別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。は室町時代後期の文明年間(1469〜1486年)に千葉輔胤(ちば・すけたね)が印旛沼を望む標高約36mほどの将門山上に築いた連郭式平山城で、南西面を除く三方は湿地帯に囲まれた要害の地にあった。この輔胤は、享徳3(1455)年に始まった『応仁の乱の関東版』とも云うべき享徳の乱の最中に起こった下総守護千葉家の内乱を制して宗家を継ぎ、のちには古河公方足利氏や長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と連携して、関東管領山内上杉氏や太田道灌、武蔵千葉氏らにたびたび抗してきた。下総千葉氏二十一代当主となった輔胤は内乱で荒廃した宗家の居城・亥鼻城[c]のちの千葉城である。を廃城とし、ここに築いた本佐倉城を、天正18(1590)年に太閤秀吉の小田原仕置によって後北条氏と共に滅亡するまでの九代、百有余年にわたり宗家の居城とした。千葉家が断絶した後は徳川家康の譜代家臣の内藤家長が入封し、本佐倉城は一旦は破却されたが、慶長15(1610)年に土井利勝が佐倉藩を起藩すると城跡に藩庁が置れた。そして元和元(1615)年には、滅亡前の千葉氏が築城に着手し未完成のままだった鹿島城を整備拡張した佐倉城へ藩庁を移転すると、本佐倉城は一国一城令に従って完全に廃城となった。

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a. 別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。
b. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
c. のちの千葉城である。

河越城 − Kawagoe Castle

小江戸川越に残る川越城本丸御殿は県庁、工場、学校を経て現在に至る

室町時代後期の長禄元(1457)年に、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田資清(道真)・資長(道灌)の親子が築城した河越城[a]現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。は関東でも要の城として上杉氏六代、小田原北条氏四代の持城となり、河越夜戦など幾多の戦いの舞台ともなった。天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置後に関東に入封した徳川家康は、譜代筆頭の酒井重忠(さかい・しげただ)を封じ、ここに「川越藩」が立藩した。そして江戸時代中期には「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら・のぶつな)が近世城郭に改修し、8つの曲輪と3つの櫓、そして12の門を持つ徳川家の親藩と譜代大名の居城となった。また天守は建てられなかったが、本丸西南隅の富士見櫓が城内第一の高所にあったためその代用となっていたらしい。嘉永元(1848)年には、藩として最大の石高を有した越前松平家の松平斉典(まつだいら・なりつね)が、その二年前に焼失した二ノ丸御殿を再建する代わりに本丸御殿を造営した。これが現在、埼玉県川越市郭町で県指定有形文化財となっている本丸御殿遺構である。明治元(1868)年、明治維新政府に恭順するために堀は埋められ、老朽化した建築物が解体されて、現在では富士見櫓跡と本丸御殿、そして中ノ門堀跡の一部が残るのみとなった。

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a. 現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。

古高山城 − Aki Takayama Castle

全国でも五指に入る規模を持つ古高山城は、谷を挟んで南北にある尾根上に築かれていた

広島県三原市高坂町にある安芸高山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるが、その一方で別名で呼ばれるのが一般的である。ここ安芸高山城は新高山城に対して古高山と云う別名がある。は今から800年以上も前は鎌倉時代の建栄元(1206)年に、沼田小早川氏四代目の茂平(しげひら)が築城した山城である。茂平ら沼田小早川氏は源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平(どひ・さねひら)を祖とし、相模国から安芸国沼田(ぬた)荘に移り住み、それまでの村名を引き続き使用して、ここ沼田でも小早川姓を名乗っていた。のちに竹原小早川家に分家したが、本家の沼田小早川家は沼田川対岸の新高山城に移るまでの四代約350年の間、ここ古高山城を居城としていた。この城は沼田川東岸にそびえる標高191mの山塊の、中央にできた谷を挟んで南と北にそれぞれ東西に延びる尾根に築かれた連郭式縄張りを持つ。その城域は約41万㎡にも及び、現在全国でも五指に数えられる広大な規模を有していた。尾根には9つの曲輪といくつかの出丸があり、中央の広く低い谷には馬場があった。天文10(1541)年に分家である竹原小早川家の養子に入っていた毛利元就の三男・徳寿丸こと小早川隆景は、若干20歳の時に病弱な本家の当主に代わって沼田小早川家を継ぎ[b]尼子氏の圧迫を受けていた周防国の戦国大名である大内義隆が病弱で盲目であった時の当主・小早川繁平(しげひら)に憂慮して隠居させたと云う説が有力である。、ここに両家が統合されたが、隆景は両家と領民の「人心一新」のために古高山城を廃城として、新高山城に居城を移した。

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a. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるが、その一方で別名で呼ばれるのが一般的である。ここ安芸高山城は新高山城に対して古高山と云う別名がある。
b. 尼子氏の圧迫を受けていた周防国の戦国大名である大内義隆が病弱で盲目であった時の当主・小早川繁平(しげひら)に憂慮して隠居させたと云う説が有力である。

津和野城 − Tsuwano Castle

江戸時代に総石垣で改築された津和野城の南側は人質曲輪が三の丸に張り出していた

明治の世になるまでは津和野藩亀井氏の城下町であり、その古い町並みや佇まいをもって現在でも「山陰の小京都」と称される島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町にある標高362mほどの霊亀山(れいきさん)の尾根を削平し曲輪を設け、堀切や竪堀・横堀で堅固とした津和野城は中世時代にあっては典型的な山城であった。鎌倉時代には、北九州への二度にわたる元(蒙古)軍の来襲を受けて、幕府は西石見の海岸防備を能登国の吉見頼行に命じ、ここ木曽野[a]現在の津和野町付近の旧名。へ地頭として下向させた。その頼行は永仁3(1295)年から約30年の歳月をかけて城[b]吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。を築いた。以後吉見氏は十四代300年にわたって増築補強を繰り返した。戦国時代になると吉見氏は、天文23(1554)年に大内氏・陶氏・益田氏らの大軍に包囲されながらも100日余の籠城戦にたえた「三本松城の役」を経てのちに西国の雄・毛利家の支配下に入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は萩へ退転した。その翌年、坂崎出羽守直盛[c]浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。が初代津和野藩主として3万石で入封し、本城を総石垣にして出丸を築き、現在みることができる近世城郭に大改修した。のちに坂崎氏が断絶すると、亀井政矩(かめい・まさのり)が入封し十一代に渡って津和野藩主を務めた。

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a. 現在の津和野町付近の旧名。
b. 吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。
c. 浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。

新高山城 − Niitakayama Castle

沼田川を天然の外堀として鋭くそびえた急峻な山に築かれた新高山城は小早川家の本拠地だった

鎌倉時代に源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平(どひ・さねひら)は相模国を中心に勢力を持っていた有力豪族の相模土肥家の先祖にあたり、はじめ吉備三ヶ国(備前、備中、備後)の守護の地位を与えられ、のちに安芸国沼田荘がある沼田川(ぬたがわ)流域一帯の地頭職を得ると、一族あげて相模国から西遷してきた。彼の嫡子・遠平(とおひら)は相模国土肥郷の小早川村に居館を築いていたことから、ここ沼田荘でも小早川氏を名乗り、のちに沼田小早川家と竹原小早川家に分かれることになる。その遠平の孫にあたる茂平(しげひら)は沼田小早川氏を相続し、居城を沼田川東岸にある古高山城[a]正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。とした。天文10(1541)年、竹原小早川家の当主は継嗣なく早世したため、この時期に安芸国の新興勢力として台頭していた毛利元就の三男・徳寿丸[b]のちの小早川隆景。を養子に迎えた。奇しくも、この時期に沼田小早川家の当主が病気にて隠居となったため、これも継いで両家が一つになった。そのため隆景は両家と領民の人心一新[c]環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。のため、天文21(1552)年に古高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、後に伊予湯築城や筑前名島城といった居城をいくつか築くことになるが、慶長元(1596)年に三原城に移るまでの45年間、小早川家の本拠地とした。

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a. 正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。
b. のちの小早川隆景。
c. 環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。
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