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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

日本の古城・古戦場マップ − Map of Castles in Japan

これは、本サイトで記録した日本の古城と古戦場、そして武将・勇将らの墓所や菩提寺などの訪問記と、オリジナル・フォト集のリンクを地図上に配置したものです:

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菅谷館 − Sugaya Castle

菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

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a. この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b. それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

水戸城 − Mito Castle

水戸城跡で唯一現存する薬医門は本丸跡地の高校の敷地内に移設されていた

鎌倉幕府で源頼朝に重用された御家人の一人・馬場小次郎資幹(ばば・こじろう・すけもと)が常陸国の大掾職(だいじょうしき)に任じられると、常陸府中を中心に勢力を広げ[a]この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。、水戸の地にあって北は那珂川(なかがわ)、南は千波湖(せんばこ)に挟まれ、東西に長い台地の東端に居館を築いて馬場城とした。室町・戦国時代にかけては常陸江戸氏が城主となって支配を続けていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置時に九代当主の重通(しげみち)は小田原北條方について馬場城に籠城したが、秀吉方についていた佐竹義重(さたけ・よししげ)・義宣(よしのぶ)父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。によって落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った義宣は、文禄2(1593)年から城と城下町の普請を開始し、東端の一段低い丘を下の丸、その上の段丘に本丸、堀を越えて二の丸、その西側に三の丸の郭を造るなどして水戸城に改め、それまでの常陸太田城からここへ居城を移した。この時、城下町は武家地と町人地が入り交じるような町割りを採用した。佐竹氏は関ヶ原の戦後に出羽国秋田へ転封となったが、後に徳川頼房[c]読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。が修築した近世城郭は佐竹氏が築いたものが基礎となって現在に至る。

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a. この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。
b. 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。
c. 読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。

笠間城 − Kasama Castle

笠間氏の滅亡後に蒲生郷成は笠間城を石垣を多用し天守を持つ近世城郭に改修した

茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。

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a. 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。
b. この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。
c. 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。

土浦城 − Tsuchiura Castle

幾重の水堀に囲まれた土浦城の本丸には東西2基の二重櫓が建っていた

戦国時代を経て江戸時代は慶長6(1601)年に近世城郭として大規模に整備された土浦城は、霞ヶ浦(かすみがうら)に注ぐ桜川河口の低地に築かれていた輪郭式平城であるが、本丸を含む主要な郭が幾重にも巡らされた水堀や周囲の沼地によって防御された「水城」としての一面をも持つ珍しい城である。周囲に特に高い遮蔽物がなかったこともあり、城の姿が水に浮かぶ亀に例えられたことから亀城(きじょう)とも呼ばれ関東でも代表的な土造りの城であった。現在は茨城県土浦市中央1丁目13番地で樹齢500年とも云われる県指定天然記念物のシイの木と芝生広場を有す亀城公園として市民の憩いの場となっている。江戸時代初期に結城秀康[a]読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。が城主となると、それ以降は土浦藩として松平氏・西尾氏・朽木氏[b]城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。が継ぎ、明治時代に廃城となるまで、甲斐武田氏に最後まで従った忠臣・土屋昌恒(つちや・まさつね)を祖とする土屋氏が藩主を務めた[c]藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。。城下に水戸街道[d]江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。を引き込み、本丸には東西2基の二重櫓が建ち、搦手口の霞門(かすみもん)、そして大手口の太鼓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝わる櫓門で、現在は関東地方で唯一本丸に現存する遺構となっている。

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a. 読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。
b. 城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。
c. 藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。
d. 江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。

品川御台場 − Shinagawa Daiba

東京湾埋め立てで姿を消したかっての海上砲台で残っている第三台場跡

東京都港区台場1丁目10番1号にある台場公園は、品川御台場(しながわおだいば)の一つであった第三台場の跡地を利用して昭和3(1928)年に開園し、さらに昭和50(1975)年には有明側に陸続きで連結されて、現在は砂浜や磯が広がるお台場海浜公園の一部として都会のオアシス的な憩いの場になっている[a]海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。。かっての品川御台場は、江戸時代は嘉永6(1853)年に米国合衆国海軍のペリー提督[b]マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。が「黒船」を率いて来航したことに危機感を持った幕府が江戸防衛のために建造した西洋式の海上砲台[c]「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。だった。ペリーが開国の猶予のために日本を去ったあと、江戸湾の品川沖に11基[d]海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。の台場建設を、伊豆韮山で反射炉の建造に携わった江川太郎左衛門栄達(えがわ・たろうざえもん・ひでたつ)に命じ、およそ8ヶ月で第一・第二・第三の台場が竣工、江戸湾防衛を任されていた川越藩、会津藩、忍藩がそれぞれ守備に着いた。すると翌7(1854)年に江戸湾に再来したペリーは砲台のために横浜まで引き返して上陸せざるを得なくなったと云う。同年には第五・第六の台場の他、御殿山下台場も竣工し、さらに第七台場も工事が進んでいたが、日米和親条約が締結されて以降は工事が中止となり、第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。

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a. 海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。
b. マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。
c. 「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。
d. 海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。

深大寺城 − Jindaiji Castle

深大寺城の第二郭跡からは九棟の掘立柱建物が発見され一部が平面復元されていた

関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部[a]読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。で標高50mほどの舌状(ぜつじょう)台地上に築かれていた深大寺城は現在の東京都調布市深大寺元町にあり、三つの郭(くるわ)が直線的に連なった連郭式平山城であった。戦国時代初期、関東の覇権を巡って小田原北条氏と争っていた扇ヶ谷上杉氏が南武蔵の防衛ラインを強化するため、往時「深大寺のふるき郭」と呼ばれていた砦跡を修築し、重臣の難波田憲重(なんばだのりしげ)[b]弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。を城主として反抗拠点とした。城の西側を除く三方は開折谷(かいせきだに)[c]地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。によって形成された沼沢地(しょうたくち)が広がり、その西側にも湧水を集めた支谷(しこく)を持ち、南側はさらに比高15mをほどの国分寺崖線(こくぶんじ・がいせん)によって多摩川と画され、その対岸をも望見することができたと云う。城内は横矢掛(よこやがかり)の虎口や郭を囲む土塁、郭を分断する空堀など防衛設備が強化されていた。戦国時代初期にあって名将の誉高く、扇ヶ谷上杉氏の勢力拡大の先鋒を担っていた太田道灌が謀殺されて以来、扇ヶ谷上杉氏の権勢は振るわず、山内上杉氏・古河公方との三つ巴の争いで互いに疲弊しきっていた間隙をついて、三浦道寸[d]相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。を滅ぼし相模国を奪った小田原北条氏による武蔵国への侵攻が始まった。

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a. 読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。
b. 弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。
c. 地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。
d. 相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。

柳河藩立花家江戸屋敷跡 − Tachibana’s Edo Residences of the Yanagawa Domain

東京都台東区界隈にあった柳河藩・立花家の江戸藩邸跡には太郎稲荷が建っていた

九州は福岡県南部の筑紫地方南西部に位置する柳川市は、明治の初めの廃藩置県までは12万石の柳河藩[a]ここでは、藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。にあたり、その起藩にあたっては、今から430年以上前の天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡13万2200石を与え、山門郡柳川を城地として定めたところまで遡る。しかし秀吉死後の慶長5(1600)年におこった関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の一人として西軍につき敗戦、徳川家康により改易・牢人となる。そのあとを継いだ田中吉政は石田三成捕縛の功により筑後一国を拝領し同じく柳川を本拠地として領内統治を行った。吉政は掘割と用水路、そして街道[b]田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。を整備し、現代の柳川市の基礎となる近代的な街作りに貢献したと云う。その後、田中家は無嗣断絶のために二代で改易となり、その翌年は元和7(1621)年に奥州棚倉は赤館で大名に復帰していた宗茂が20年ぶりに10万9647石余で柳川の領主に返り咲くと、明治まで柳河藩・立花家12代が治めるに至った。宗茂公はその翌年に二代将軍・秀忠への御礼言上のため江戸へ参府し、併せて江戸藩邸の普請を開始した。この藩邸は上屋敷・中屋敷・下屋敷から成り、それらは現在の東京都台東区千束(せんぞく)から下谷(したや)、そして三筋(みすじ)周辺にあたる。

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a. ここでは、藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。
b. 田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。

上田城 − Ueda Castle (TAKE2)

真田氏のあと仙石氏が大改修した上田城の本丸東虎口跡には櫓門が復元された

長野県上田市二の丸6263番地イにあった上田城は、天正11(1583)年に信濃の戦国大名・真田昌幸が千曲川を南に望む河岸段丘上に築いた城である。しかし現在、上田城跡公園の城跡に残る櫓や堀、石垣といった遺構は、江戸時代初期の元和8(1622)年に小諸から移封された仙石忠政[a]父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。が改修した時のものである。関ヶ原前哨戦で昌幸が徳川本隊を足止めした第二次上田合戦後、手塩に掛けて整備した城は徳川の手で徹底的に破却され堀も埋められたままであったが、忠政は幕府に城の普請を請い、小諸城のように櫓や石垣を多用し質実剛健な近世城郭として新たに再建しようとした。従って現在の城跡は真田氏時代の縄張が一部流用されているものの、城郭そのものは全く別物である。また再建中に忠政が死去したため普請は中断となり、未完のまま仙石氏は転封、のちに藤井松平家[b]三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。が入城し、そのまま幕末を迎えた。上田城は明治時代の廃城令で破却され、建物は民間に売却されるなどして、七棟あった櫓は西櫓が残るのみとなった[c]北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。。しかしながら昭和24(1949)年には、上田市民の寄付により北櫓と南櫓の二棟が元の場所に移築復元され、平成6(1994)年には本丸東虎口櫓門と土塀が復元されるに至り、今後も二の丸土塁などの復元が予定されている。

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a. 父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。
b. 三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。
c. 北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money(TAKE2)

信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

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a. 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b. 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c. 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d. 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e. 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f. 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。

設楽原古戦場 − The Battle of Nagashino

天正3(1575)年6月末、歴史的な野戦が行われた場所には「決戦場」の碑が建つ

天正3(1575)年5月16日[a]この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。、三河国長篠城を1万5千の兵で包囲して孤立させ、残る郭は本丸と二の丸のみとした武田勝頼は、医王寺山[b]この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。に構えた本陣にて「信長来る」との一報を受け取った。そして5月19日、宿老らを集めて軍議を開くと勝頼は織田信長・徳川家康と無二の決戦を行うことを主張し、推し量った彼我の兵力差から甲斐国へ撤退することを主張する老練な「年寄り」らの意見を退け、寒狭川(かんさがわ)[c]豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。を渡って設楽原(したらがはら)[d]別名は有海原(あるみはら)。へ陣を進めると独断した。風前の灯となった長篠城を囮にし、設楽原の連吾川(れんごがわ)対岸に陣をはる信長軍を太陽を背に見下ろすような逆落しの斜面、そして梅雨の長雨によって飛び道具を無力化できるといった優位性が勝頼の決断を後押しした。そして3千を長篠城監視部隊として残し、残る1万2千を主力として大雨の中を密かに連吾川東岸辺りまで押し出させた。一方の織田・徳川連合軍3万8千は5月13日に岡崎城を出陣、まるで長篠城の後詰など考えていないかのように設楽原までの十里[e]日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。の道のりをのらりくらりと三日もかけて行軍してきた[f]これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。。そして連吾川西岸に着陣するやいなや持参した大量の丸太で馬防柵の設営を開始、同時に別働隊の3千を鳶ヶ巣山(とびがすやま)へ向けて進発させた。

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a. この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。
b. この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。
c. 豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。
d. 別名は有海原(あるみはら)。
e. 日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。
f. これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。
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