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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

日本の古城・古戦場マップ − Map of Castles in Japan

これは、本サイトで記録した日本の古城と古戦場、そして武将・勇将らの墓所や菩提寺などの訪問記と、オリジナル・フォト集のリンクを地図上に配置したものです:

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志村城 − Shimura Castle

志村城の二ノ丸跡には熊野神社があり、社殿は古墳の上に建てられていた

武蔵千葉氏ゆかりの城である志村城は、康正2(1456)年に千葉自胤(ちば・よりたね)が扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。の助けを借りて赤塚城に入城した際に、彼の一族である千葉隠岐守信胤(ちば・おきのかみ・のぶたね)を配して赤塚城の前衛拠点としていたと云う。ここ東京都板橋区志村にある丘陵地に築かれていた志村城の築城時期は不詳であるが、一説に南武蔵の石神井城を居城として勢力をふるい、のちに長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。の乱に乗じて小机城で太田道灌と対峙した豊島泰経(としま・やすつね)の先祖が築いたとも。この城の本丸は、現在の区立志村小学校を中心とした比高20mほどの舌状台地上にあったとされ、周囲に出井川(でいがわ)[c]かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。と荒川をめぐらせ、城の北・西・南側は急崖のうえに湿地帯であったため「守るに易く攻めるに難し」と云われた堅城であった。しかし大永4(1524)年に小田原の新興勢力・伊勢氏綱[d]のちの北条氏綱。に攻められて落城し、北条氏配下に入ったが、豊臣秀吉の小田原仕置後に志村城は廃城となった。現在は宅地化の波に埋もれ遺構は殆どといってよいほど期待できないが、城山と云う台地の上にある城山熊野神社はかっての二ノ丸跡で、その社殿は古墳の上に建ち、境内には横矢掛かりの空堀の一部が残っていた。

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a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
c. かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。
d. のちの北条氏綱。

赤塚城 − Akatsuka Castle

さくら並木でも有名な赤塚公園の城址広場は往時は赤塚城本丸跡であった

東京都板橋区赤塚5丁目にある赤塚溜池公園[a]公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。南側の台地上には、かって赤塚城が築かれていた。この城の築城年は不詳であるが一説に、康正2(1456)年に武蔵千葉氏[b]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が親の仇である古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗して下総国市川城[c]国府台城であったと云う説あり。に籠城したが寄せ手の梁田持助(やなだ・もちすけ)に敗れ、扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[d]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。を頼りに武蔵国へ落ち延び、彼らを庇護した道灌は兄の実胤を武蔵石浜城[e]現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。へ、弟の自胤を赤塚城に置いたとされる。現在の城址公園あたりは高島平のベッドタウン化に伴って急速に開発が進み、それまで明瞭に残っていた遺構が殆ど確認できないほどに改変されてしまったと云う。その結果、現在は本丸跡と堀切跡、そして石碑が残っているだけである。城址の北と東と西の三方の台地縁は自然の谷で区画され、北側の溜池あたりは外堀であったとされ、往時の赤塚城は北側を流れる荒川の早瀬の渡しを一望し、武蔵国北部と南部、江古田に至る鎌倉街道を押さえる要衝であったが、のちに武蔵千葉氏が小田原北条氏麾下となった後は、主家と運命を共にし豊臣秀吉の小田原仕置後に赤塚城は廃城となった。

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a. 公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。
b. 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
c. 国府台城であったと云う説あり。
d. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。

岡城 − Oka Castle

黒目川が取り巻く舌状台地に築かれた岡城の子細は不明であるが太田道灌が関与しているとも

かって「岡の城山」(おかのしろやま)とも呼ばれていた埼玉県朝霞市岡にある城山公園は、今から約8000〜4500年前の縄文時代から遺る遺跡[a]貝塚が発見されている。であり、戦国時代前期には黒目川(くろめがわ)[b]東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。を真下に見る舌状(ぜつじょう)台地の先端部を利用した岡城[c]朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。なる連郭式平山城が築かれていたとされる。この当時の築城者や城主については現在のところ不詳であるが、文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺん・むさし・ふどきこう)の中には名将・太田資長[d]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。や、その曾孫・太田新六郎康資[e]読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。との関係ついて記述があると云う。築城の才が豊かな道灌は稲付城の例にあるように、台地の先端が「舌」のような形になっている舌状台地を利用して城を築くことが多いようで、北は河越城岩付城、南は赤塚城志村城、稲付城といった規模の大小を問わずに江戸城の防衛線を構築していたのではないかと見ることができる。岡城が築かれた台地は西から東へ延びており、西側にある日蓮宗・本仙寺(ほんせんじ)付近で細く括れた独立丘陵状を呈しており、標高は約19mで周囲の低地との比高は12〜14mほどで、城内は堀切や「折れひずみ」と呼ばれる空堀、そして土壇によって区分けされた郭が連なっていたとされる。

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a. 貝塚が発見されている。
b. 東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。
c. 朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。
d. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。

国府台城 − Kounodai Castle

江戸川沿いの下総台地西端に築かれた国府台城では土塁に古代古墳を利用していた

千葉県市川市国府台にある里見公園は埼玉県東部から千葉県北部一帯に走る下総台地の西端で、江戸川沿いの台地上にあり、往時は下総国の国府が置かれたことから国府台(こうのだい)と呼ばれ、下総国の政治や文化の中心となった場所であった上に、室町から戦国時代の関東動乱の舞台ともなった国府台城が築かれていた。その由緒としては、歴史書の『鎌倉大草紙』(かまくらおおぞうし)[a]室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。には文明10(1478)年に扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[b]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。が、ここ国府台に陣城を築いたとあり、これを始まりとする説がある。他に、それより前の康正2(1456)年に武蔵千葉氏[c]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が市川城なる砦に立て籠もって、古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗したと云われているが、この市川城と道灌の陣城との関係は不明である。その後、国府台は二度にわたり争乱の表舞台に立つことになる。まずは天文7(1538)年に伊勢氏綱[d]北条氏綱。小田原北条氏二代目当主で、北条早雲の嫡子であり、北条氏康の父である。と小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(あしかが・よしあき)・里見義堯(さとみ・よしたか)連合軍との合戦、そして永禄6(1563)年から二年に渡る北条氏康と里見義弘との合戦で、ともに里見勢は敗退し、下総から里見氏の勢力が駆逐されていくことになった。

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a. 室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。
b. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
c. 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
d. 北条氏綱。小田原北条氏二代目当主で、北条早雲の嫡子であり、北条氏康の父である。

稲付城と道灌山 − Inatsuke Castle and Doukan-Yama Fort

日暮里駅前には江戸城の周囲に砦城を築いた太田道灌の騎馬像が建っていた

室町時代後期の武将で、武蔵国の扇ヶ谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦を指揮した太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。は軍略・軍才はもちろんのこと築城の才能も抜群で、康正2(1456)年から長禄元(1457)年にかけて江戸城河越城、そして岩付城を築いたことは有名であるが、他にもこれらの城の支城や砦なども築いており、500年以上経った都内各所には現在も遺構や伝説が残っている。その中で武蔵野台地北東端に天然の地形を利用して築かれたとされる稲付(いなつけ)城は、東京都北区赤羽の静勝寺(じょうしょうじ)にあたり、道灌が築いた戦国時代初期の砦跡と伝えられている。後年、彼の子孫が城址を含めた土地を寄進し、道灌と彼の父・道真の法号により自得山静勝寺と改称したと云う。また文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として記述があるのだとか。そして稲付城南東にある飛鳥山[b]現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。から上野へ向かって南下した台地の縁にある道灌山もまた道灌が江戸城の出城として築いたと云う伝承があり、現在はその一部が西日暮里公園として残されている。かって、この台地に広がる寺町あたりは「ひぐらしの里」と呼ばれ、寺社が競って庭園を造り、花見の名所でもあった他にも筑波山や日光山を展望することができたと云う。

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a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。

茅ヶ崎城 − Chigasaki Castle

早渕川に張り出す丘陵上に築かれた茅ヶ崎城の中郭は高い土塁で囲まれていた

神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎[a]神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。は旧港北区の北西部にあたり、現在は横浜市の行政区として再編され港北ニュータウンとして生活拠点に指定された街であるが、その街を流れる鶴見川の支流・早渕川(はやぶちがわ)中流右岸にある三角山[b]現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。から東へ連なる標高28m〜35mほどの丘陵上に茅ヶ崎城[c]この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。がある。この城の近くには、往時は関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っており、東には相模国と武蔵国江戸を結ぶのちの中原街道が、そして西には矢倉沢街道に通じており、まさに交通の要衝の地に築かれた平山城であった。この城の築城とその年代については正確な史料がないため、平成2(1990)年から始まった発掘調査の結果から築城年代は14〜15世紀前半頃で、少なくとも二度に渡る大規模な改築跡が認められた。それにより15世紀後半の相模国と武蔵国は関東管領・山内上杉氏の所領であり、その後は小田原北条氏の支配を受けていたと考えるのが専らとされている。現在残る遺構も、早渕川に張り出した丘陵上に複数の郭が連なり、それらを取り巻く空堀や堀切、外縁部に築かれた高い土塁、そして中郭東にあった二重土塁などは「北条流築城術」が伺え、その保存状態も良好である。

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a. 神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。
b. 現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。
c. この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。

横須賀城 − Yokosuka Castle

城内に船着場を持つ横須賀城本丸南下は大井川の河原石を用いた玉石垣造りだった

今から400年以上も前の天正3(1575)年、織田信長・徳川家康らの連合軍38千は三河国の設楽原付近[a]現在の愛知県新庄市長篠にあたる。で武田勝頼が率いる騎馬軍15千と決戦を行い(長篠・設楽原の戦)、これに勝利した。これを機に、家康はその前年に無念にも甲斐武田の手に陥ちた高天神城の奪還に向けて準備を開始した。しかしながら長篠の戦で惨敗し多くの重臣・将兵を失った勝頼ではあったが、その強力な甲州騎馬軍団は依然として侮りがたく、家康だけで[b]おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。一気に力攻めするようなことはせずに、足掛け二年もの時間をかけて[c]この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。、まずは高天神城の周囲にある武田方の城や砦を一つづつ取り戻し、その上で周囲に六つもの附城を築き、高天神城への人的・物的補給路を完全に遮断して兵糧攻めによる攻城戦を選択した。その附城の一つとして家康の命を受けた大須賀康高が、馬伏塚(まむしづか)砦に続いて天正6(1578)年から築いた横須賀城は、現在の静岡県掛川市大渕にある。この城は、高天神城からおよそ6㎞という距離にあり、城の南側が遠州灘の入江となっているため船着場を持ち、さらに西と東にそれぞれ大手門を持つ両頭城で、高天神城攻めの軍事拠点として、そしてその周囲にある各砦の兵站拠点として活用されることになった。

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a. 現在の愛知県新庄市長篠にあたる。
b. おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。
c. この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県は掛川市上土方嶺向(かけがわし・かみひじかた・みねむかい)にある高天神城は、小笠山(おがさやま)から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山(かくおうざん)を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠州を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田四郎勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

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a. 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b. 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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a. 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

杉山城 − Sugiyama Castle

鎌倉街道を見下ろす丘陵に築かれた杉山城南二の郭と南三の郭は屏風折れの切岸と堀を持つ

埼玉県比企郡嵐山(さいたまけん・ひきぐん・らんざん)町にある杉山城は、(旧)鎌倉街道を見下ろす丘陵の山頂に築かれた本郭を中心に、北・南・東の三方の尾根上に複数の郭(くるわ)を配した連郭式平山城である。総面積は約80,000㎡にも及び、丘陵の高低差を利用して巧みに築かれた縄張は、市野川を外堀としたまさに自然の要害と呼ぶに相応しい県内でも屈指の名城として評価されているが、この城の築城年代や築城主については現在[a]城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。でも不明である。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、横矢掛かりを仕掛けるための複合的な虎口、馬出として利用していた郭など、現存する遺構の保存状態は良好で、その技巧的な城構えからは戦国時代後期の小田原北条氏によるものとされていたが、近年は発掘された土器や陶磁器といった遺物の製造年や近隣の武州松山城の存在の他に、同時代とする山中城などに見られた北条流築城術の特徴が無いことから、戦国時代初期の関東管領山内上杉氏とする説が有力となった[b]本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。。しかし、依然として出土遺物だけで年代を確定するのは説得力が乏しいとされ、縄張や虎口の類似性、築城技術の差などから後北条氏によるものとする主張も多く、今もなお『杉山城築城の謎』として物議を醸している。

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a. 城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。
b. 本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。
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